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「二、鬼を恐れる者 前編」の詳細記事: 彩

創作小説を掲載するブログです。 幻想世界を基本に書いていきます。

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二、鬼を恐れる者 前編

 カヤが、いない。
 どこを探しても、いない。
 家の中はまるで乱闘があったように荒れていた。
 たくさんの壊れたものの中に落ちていた鈴。
 カヤの大切な一部。
 それが、カヤの言葉を伝える。
 カヤが、いなくなったのだと――――――克明に、示す。
 カヤの手首に巻かれていた色糸は千切れ、鈴を落とした。幾重にも堅く結わえられた組み糸が、自然と切れることはない。自分の家に伝わる組みはとても頑丈な紐を作ると村でも評判で、どんな大物を吊り上げても切れないと言われているものなのだ。しかも、新しく組んだ糸と付け替えたばかりだ。
 それが、ぼろぼろの切り口を見せて、床に落ちている。赤い雫も落ちていた。………引き千切られたのだ。それも、カヤの肌を傷つけて。
 手の中で、鈴が篭った音をだす。
 灯りを灯さぬ家の中には夜闇が忍び込み、コウを暗鬱にさせる。昏い昏い底沼へと引き摺られる。
 何も見えない中、聞えてくる。
『カヤが、いなくなったって………?』
 月が中天に届く刻になっても、帰って来ないカヤ。
 耐えられなくなって、眠りに入ろうとした村を走り回った。
 閉ざされた木戸を乱暴に叩いて、カヤの行方を聞いていった。
『………もしかして、迷子になった―――と思う、よ』
 突然消える、村人。
 それは湖に迎え入れられたからだと、誰もが言う。けれど、村人がカヤに対してそれを言い渋っていた。
 ヌシ様に呼ばれるのは、優れた者―――――他の者から羨まれる要素を持っている者。カヤが湖に迎えられるのには値しないと思っているのは、すぐに解った。
 カヤは、漁に出ることがなかった。村の者は子供であれ湖からの恵みを収獲するため働く。引き網を使った、村総出の行事にはでてくるけれど主に炊事を携わって、魚を獲る事はしなかった。それどころか、湖に近づくことを怖がる。
 だから、湖を崇める村人はいい顔をしなかった。
 器用で、よく動くから邪魔者扱いはされなかったけれど、村の者とは違った事をするカヤは受け入れられているように、思えなかった。
 本当は、………言いたいはずだ。濁す言葉に隠された心―――――鬼に、連れ去られたと、そう思う心が滲み出ていた。
 皆、言葉を濁しってボソボソと言う。迷子に、なったのじゃないかと――――――。言葉を濁し、言いたいコトを隠した。
 朝になったら組を編成してカヤを探すから家に戻りなさいと、自分を宥めた祭司様の言う通りにしたけれど、眠りなど訪れない。濃くなる闇に意識が冴えていった。
 謐々………音のない空間に独りでいる。
 夕餉の為に熾した火が消えるまでの間、カヤは杜でとれた薬草をことんことん、すり潰して丸薬にしたり、日干しして水気を飛ばし必要な時飲み湯に入れれるようにしていた。カヤは湖に近づかなかったけれど、杜へはよく足を運んだ。時にはもっと奥のリンへと足を運び、珍しい草や花や実を取ってきた。それらを生活に使えるよう、手を加えていく。薬草だけでなく、もっといろいろな物を作っていたけれど、髪飾りやら飾り布といった男の自分には分からない物だったから鈴の音だけに耳を傾けた。
 工作にうちこむカヤの手に合わせて、鈴が鳴った。村であったことや仲間内での話題を手を止めずに聞き、宴や祭り、または誰かの慶びの日に合わせて、色々な細工物を作っていた。細かく丁寧に作られる飾り物は身なりを気にする娘達が争奪戦を行なうほどの人気だった。
 それから、それから―――――。
 カヤがいなくなったということを忘れるかのように、日常の中にいたカヤを思い出していく。
 自分の姉。けれど、自分より幼い姉。
 自分の家系は村人と少し違う顔立ちだ。カヤは特に村人とは違う顔立ちだった。大きくぱっちりと開いた目、綺麗に通った鼻筋、柔らかな曲線を描く唇、肌は血の通る筋が見えるほどに白かった。村人の目がカヤにいくからあまり言われないが、自分も似たような顔立ちだと、水面を覗き見るたびに思う。でもカヤと向かい合うと、村人とは異なるものだという感覚はなくなる。自分を見る、自分と同じ容貌。とても落ち着いたのだ。
 眼球が零れ落ちるほど見開いた目が、戸口の隙間から零れてくる蒼さを捕らえた。
 コウは、密かに輝くその彩を見た。
 朝が、来た。
 朝になったら祭司様が組を編成してカヤを探すと言っていた。
    行かなきゃ……
 立ち上がった瞬間、視界が回り、頭痛と吐き気が襲ってきたが、それらを捻じ伏せてコウは村へと走っていった。

 カヤは、いなかった。
 消えた者がでるとまず各家の長が家を検め、祭司様の下、組が編成されて村の近辺を詮索する。普段足を踏み入れない木々の帳の中を歩き、何の痕跡も見付からなかったら近しい者達が名を呼ぶ。
 空に向かって一度、村境に向かって一度、そして最後に湖に向かって。答えるものがいなければその者はいないと―――――皆が知る。
 チャムがいなくなってすぐのことで、立て続けに村人がいなくなったことに一時騒然とした雰囲気が漂ったが、それは驚きとは違ってどこか………嫌な空気を生む騒がしさだった。
 組に指名された者達は半日ほどで引き上げてきた。一度清めを行なった道には何の痕跡も残っていないと、早々に帰ってきた。
 もっとカヤを探して欲しいとコウが詰め寄ると「馬鹿いうな、どうせ―――」皆、途中で言葉を切り、視線を泳がせるだけだった。誰もが早々にいつもの生活に戻ることを望んでいた。
 ヌシ様に迎えられた者は水底の館に遣える。鬼に浚われた者は……………。
 沈痛な面持ちで唇を噛み締めていたコウの肩を、司祭が包み―――――言った。
 カヤの名を、呼ぶように、と。
 それの意味するところは、一つしかない。
 震えるコウを抱きしめて、もう一度司祭はコウに言った。
「カヤの、名を―――」
 開閉を繰り返すコウの口からは、ヒューヒュー、風が鳴くだけ。
「コウ……、名を呼びなさい」
 顔をゆるゆると上げると、自分をぐるりと取り囲む村人の顔が見えた。
「……ぁ」
 自分を見る目が言う。早く、日常に戻せ、と。
 呼びなれた名が、虚ろに響き渡っていった。
 一度、二度、三度――――――コウは、カヤを呼んだ。
 コウの叫びが湖へと吸い込まれていくのを見届けて、村の者達は一人、また一人といつもの生活の中へと戻っていった。
 そういうものだ。
 〝迷子〟がでた時、村では今のようにしてそれぞれ日常を取り戻す。ただ………。ただ、今は惰性でやっただけ。平穏な時間を取り戻す為ではない。やらなければいけないという奇妙な義務感から執り行われたもの。
 漠然とだけれども、判る。
 子供であろうと、感じることはある。
 皆、はやく終わって欲しいと―――〝迷子〟となったカヤを煩わしいと、思っていた。
「気をしっかり持ちなさい」
 綺麗な話し方をする司祭の言葉が、胸に刺さった。
 誰もいなくなった広場を、賑やかで明るい会話が取り囲んでいく。それは編み籠のように絡み合っていく。コウを一人置いて、いつもの時間が構成されていく。
「……う、ぁあ」
 堪らなくなって、コウは走り出した。
 帰路についていた村人は、叫びながら自分の横を通り過ぎていったコウにぎょっと目を剥く。
    カヤ、カヤ………!
 無意識に足は家に帰る道をを辿っていたが、帰ったところでカヤがいるわけではない。
 今さっき、自分はカヤの魂(たま)別れをしてしまった。
 〝迷子〟となって姿を消した者の痕跡を消すために、その者の名を三度呼ぶ。二度の呼びかけに何の応えもなければ、その者はいなくなったと心し、向かった先の湖へとその者の名を渡す。それで湖に迎え入れられた者は名を取り返し、湖の住人としてヌシ様に仕える。
 魂別れは、決別を意味する。
 家に帰っても、誰もいない。
    カヤ……、
 杜にさしかかる。
 コウは木漏れ日を振り切ってさらに奥へと向かった。
 杜の淡い茂みを乗り越え、鬱蒼と木々が繁るリンへと向かって走っていった。
 リンは、鬼の支配するところ。それは誰もが知っている。鬼の使いを吊るための、村境へと続く道は札で護られているけれど、そこから足を踏み外すと………もう、戻れない。
    戻れなくなっても、いい――――――
 コウは、闇しか見えないリンの中へと、走っていった。
    カヤ………!
 リンに向かって、走る。
 リンを疎い、避ける村。無事に戻れたとしても、自分は今まで通りの生活を送れないかもしれない。ふと、頭の片隅で囁かれた声。自分でそう思ったのか、迷子となった我が子を探し回り、リンへと入っていった親に対して村人がとった態度を思い出したからなのかわからなかったけれど、すぐにどうでもいいと思った。
    カヤ……、
 ただ、自分の大切な片割れに会いたかった。
 それだけしか、考えられなかった。
「あっ……」
 突然足に痛みが走り、ぐらり……視界が傾いた。右頬と右肩を最初に衝撃と振動が身体を突き抜けていく。
「いたい……」
 血が、流れていた。
 樹皮を編み込んで作った足当てが崩れていた。足に固定するための布が切れたのではなく、突出した岩に足当てが砕かれたのだ。そして、自分の足も深く傷ついていた。
「いたい、よ………」
 どくどく流れる赤い血が、暗がりによく映えた。
 そう、―――――とても、暗かった。
 家に帰るために通る杜とは違う、光がない空間。染み込んだ闇が絶えず動いていて、何か……いるような気がする。コウは忙しなく呼吸を繰り返した。
 光を遮る闇の塊は、コウの侵入を遠くまで伝えていく。
  ざわざわざわ…………、
 無法者が這入ったと、ざわめいている。
 息を継ぐのに、力を必要とした。普段は意識しない動作に、過敏に反応する神経が、コウを苛む。
 リンに入ったばかりなのに、こんなところで竦みあがっている訳にはいかないのに、呼吸をする音と鼓動だけが忙しなく動く。
 ぜぇぜぇと、神経を逆撫でる呼吸に、体内を駆ける鼓動が連動する。血の巡る音が煩くて堪らないのに、闇の些細な動きに心が過剰に反応する。
「いや………」
 自分を守るように身体を丸めると、血に塗れた足先が映った。
 皮膚が破れ、爪が剥がれていた。それが解ると、さらに痛みが増す。
「ヤ、だぁ…いやだよぉおーー」
 コウは、泣いた。
 抑え込んでいた感情が、溢れ出す。
 言えなかった心が、現われる。
「カヤ、カヤがぁ……いない…………やだ」
 息が、悲鳴のような音をだす。
「やだやだぁ……一人、に」
 言いたくない言葉を飲み込むと、ごろりと痛みが喉を潰し、コウは激しく咳き込んだ。身体の中身を吐き出しているような咳を繰り返していると、口の中が酸っぱくなった。気持ち悪くなって、さらに咳き込むと何かが逆流してきて、コウは嘔吐した。
 味わった事のない苦味と酸味に、口内を強く刺激されて息がつまる。
「うぇ……、ぐ、ぅうーーーー」
 溢れる涙は、乾いた土に吸われ、染みていった。
「一人に、なっちゃうぅ………いやだっ」
 コウの、掠れた声は――――ざわめく木立に掻き消されていく。
  ざわざわざわざわ、ざわざわざわざわ
 揺れ動くリンの闇が、コウを包む。
「ヤダ……よ………」
 暗くて、怖くて、何もわからなくなった。
「やだ、やだぁ…………イヤだーー」
 すべてのものを拒絶する。
 何もかもが、厭だった。
 蹲って、すすり泣くコウの上で闇が………ざわざわざわ、嗤っている。
 自身を傷つけ、暴れまわる激情に成す術はない。それは、隠してきた心。いつもいつも抱えていた想いだから、一度現われると抑える事はできない。
 己の心に振り回され、震えるコウは、じぃっと注がれる視線に気づかなかった。
 それはとても静かにコウを見ていた。自分の存在を隠すことはせず、ひっそりと佇み、そして動いた。
 踏まれた草が、幽かな音を発す。かさかさと、一歩踏み出す度に鳴る音を消さずにコウへと近づいていく。
 言葉を掛けられるまで、コウは気づかなかった。
「どうした、子供?」
 とても落ち着いていて、知的な印象を受ける響き。
 初めて聞く、声。そのような響きを生む話し方を、村人はしない。聞いたことのない声音が耳に滑り込んできて、呼吸し損ねた喉がひゅるりと、鳴く。
 自分の後ろに、誰かがいるという現実に………コウは、初めて気づいた。
 戸惑っていると、声の主がコウの前に座り込み、覗き込んできた。
 ざわりと、寒気が走る。
 得体の知れないモノに直面しているという事実を、目で確認できるというコトに呼吸が浅くなった。
「怪我したか……」
「―――」
 その、言葉に………。会ったばかりだというのに、優しさを感じて力が抜けた。
 無意識に顔をあげて、自分を覆う闇の形を確認する。
「…………」
 鬼とは、思えなかった。
 けれど、村の者でもない。
    誰………?
 胸の内で呟やいた心を残して、コウの意識は真っ暗な中へと落ちていった。

 靄がかかった世界が見える。
 ゆらゆら、ゆらゆら………何もかもがおぼろげだった。形が定まらない中で、暖かな揺らめきが映る。
 じっと、それを見つめているとパチパチと音を弾かせたのがわかった。
 またたきを繰り返す。けれど、ぼんやりとした世界は明るくはなっても、はっきりとはしなかった。ゆらゆら、ゆらゆら………おぼろげな構成のまま。
    火………、
 パチパチ、火の粉が舞う。
 暖かな光を放つ火に向き合って座る姿が、光に照らされ浮かび上がっている。
    父さん……
 物心ついた頃の、幽かな記憶。それが今と重なり、コウをさらに曖昧な感覚に落とす。
 パチリと舞う火の粉が、心地よい香りを運ぶ。
    いい、匂いだぁ………
 一呼吸する度に、身体が和らいだ。
    父さん……
 ずっと―――、村で生活をする者の一人として生きていた時からずっとずっと身体の奥底に抱えてきた重い気持ちが、解されて、消えていくようだった。
    母さん………。 母さん、母さん……………
 忘れていた優しさが、自分を包むのを感じた。
 定かでない世界にいるのに、身体が安らいでいく。
「もう少し、眠るといい」
 声が、聞こえた。
 穏やかな音に導かれるように、コウの瞼はゆっくりと落ちていく。
「ゆすらうめの香は、しばしの休息を与えてくれる」
 パチリ、くべられた木がはぜる。
「眠るといい………」
 小さく顎をひいて、コウは温かなまどろみに身を横たえていった。
 夢か現かわからない一時。けれど、その光景は閉じた瞼でも遮れない光に刺激されると、霧散して跡形も無くなった。
 光が、飛び込んでくる。
 あまりにも眩しくて、入り込んでくる光を拒むように瞼に力を入れたが、逆にそれは覚醒を促す事となった。眉間に皺を深く刻みながら視界を開けていくと、天窓から光が降り注いでいる。
 充分すぎる光を確認すると、強く閉じた瞼を、少しずつ開けていく。
 太陽が、ちょうど天窓に収まっていた。それはこの時期の軌道から考えると日の出から随分時間が経っていることを意味していた。
「あぁ……!」
 コウは飛び起きた。
 ようやく魚が戻ってきて蓄えを増やす機会を得た。日の出と共に湖に繰り出して漁をすると仲間と打ち合わせていたのに、寝過ごしてしまった。
 一人だけでの仕掛と違って、人手が必要とされる漁なのだ。自分が欠けた事で時間と労力の負担を仲間に与えてしまう。
 身体に巻きついていた掛け布を跳ね除けると、コウは叫んだ。
「寝過ごしたよ、カヤ―――」
 言葉が、途切れた。
 身体が強張り、呼吸が上手く出来なくなる。
 その名は、呼んでも意味をなさないというコトに気づき、コウは強く自分を抱いた。
    ココ、どこ………?
 自分の居る場所を把握しきれずに、コウは忙しなく周りを見た。
 光の眩しさに眩んで、闇に囲まれているように見えたが、徐々に室内の様相がわかってきた。
「あ…」
 吐息に、心が混ざって零れた。
 形を持った闇の塊を見つめる。もっとちゃんと見たいと思い、近くへと寄った。
「すごい………」
 自然と、言葉がでた。目を外すことができない。
 目の前にあるモノ―――――翼を持つ生き物。
 それは、今にも動き出しそうだった。緻密に造られているソレに、じっと目を凝らす。、一つ一つの羽の柔らかさ、飛び立とうとする瞬間の力強さと脈動感を彫りこむだけでなく、うねったり真っ直ぐになったりと変化する筋が全体にあって、存在感を深めている。
 そぉっと伸ばした指先に、コツリ堅い感触が響く。
「これは、………木?」
 指を動かすと、刻まれた痕がこそばゆい。伝わってくるものは、確かに木そのものだった。
「なんだ……」
 コウは口を曲げた。自分の手に触れれるところにあったものが、広い広い空を飛ぶものとは違うものと実感する。見れば解る当たり前の事かもしれないが、残念でならなかった。
    これは、どこを見ているんだろう………?
 飛び立つ瞬間。
 大地の戒めを振り切り、何の障壁もない空へと。青く澄み渡る美しさの中へと飛んでいく、その時。見上げる自分には小さな影しか落としてくれない存在は、美しい世界へと向かう時……………どこをみているんだろう。
 鋭い目は、何に挑んでいるのだろう?
 コウは、作り物の鳥と対峙し続けた。
 威風堂々とした姿は、初めて見るものだった。翼がなければ、獣と言われても信じてしまう大きさ。
「どういう鳥、なんだろう………」
「大鷹だ」
「わぁあ…!」
 独り言に帰ってきた答え。その音は今まで体験したことのない衝撃をコウに与えた。飛び上がった身体を支えきれず膝が折れ、勢いよく尻を床に打ちつける。驚きと痛みが綯い交ぜになり、涙が浮んだ。
 じぃんと、全身に流れた痺れが薄れてくるとようやく視界が利いてきた。
 足首に鮮やかな布地を巻きつけているのが最初に見えた。村の男の服装と違って丈が腰までの短い上着。布地は、裂けたのか初めから分かれているのか、左右重ね合わせていた。
 村の男は丈が太腿まである布地を袋にして、首と手の部分に穴を空けた服だ。水の中で自由が利くよう下巻だけを着け、足は剥き出しにして過ごす。
 目の前にいる男の足は、膨らみのある布地に覆われていた。足を覆った服装は、司祭様と村長様と村長に関わる者がする。
 目の前に立つ人は偉い人なのだろうか………。男の服装からそう思ったコウは、緊張する。偉い人話しかけるには、ちゃんとした手順が必要となる。
 どう話せばいいのかわからず、混乱と不安に落ち着きなく視線をさ迷わせていると、声をかけられた。
「ヒゲツ」
「え…、」
 何を言われたか、わからなかった。まばたきを繰り返していると、その人は目の力を緩めて口端を上げた。
「ヒゲツ……、と言う。 お前は?」
 何度も、またたく。唇が乾いて、触れた舌先がざらり、刺激される。
 名前を問われたのだと気づくのにはしばらくかかった。
「あ、その……。ごめんなさい」
 かさつく唇を舐める。一つ息を吐いて動揺を宥めてからコウは名乗った。
「オレは、―――コウ」
 ヒゲツと名乗った男は、少しだけ目を細めた気がした。
「コウ、か……」
 顎を軽く撫でて、静かに呟かれた自分の名。
「はい……そう、です……………」
 躓きながら話すコウを見て、ヒゲツは首を傾げた。
「何を畏まっている?」
「うあ、……ぁ、その―――」
 顔を上げて、ヒゲツを見ようと動いた目はすぐに下を見た。
「貴方は、偉い人でしょ? だから……、その」
「エライヒト? ………誰のことを言っている」
「え? それは、ヌシ様を祀る司祭様や村長の血に連なる人達…………」
 自分を見てくるヒゲツを意識してか、コウの声は徐々に小さくなり、最後には空気に消えていった。
 縮こまるコウを見て、ヒゲツは「ふむ……」と小さく呟いた。強く息を吐いただけのものだったが、鳴った音がコウをますます小さくさせてしまったのでヒゲツは原因を作った自分の口を封じ、かける言葉をしばらく模索した。
 考えても、聞く相手が自分の言葉を聞こうとしなければどうにもならないと結論に至ったので、口を覆っていた手を外した。
「そんなに脅える必要はない」
 そんなことはないと、勢いよく顔をあげたら思っていた以上にヒゲツが近くにいて、コウは固まってしまった。
    ………息が、うまくできない
 肩が、震える。
「まず、頭を下げるのを止めることだな」
「え……?」
 言われたコトに反応して、声の主へと視線が動いた。随分と高いところから見られていた。無意識に身体を低くし、頭を下げ、コウはヒゲツを見上げる姿勢をとっていた。
「お前の村では、エライヒトというものには、そのように接するものなのか?」
「あ……、いえ」
 今のような姿勢になって、ラシュンから止めるようにと言われたことが頭を掠める。
「しませ、ん…………、オレだけ、かも………」
 司祭様を、見る機会があっても話す機会はない。村を治める血脈となると、会う事など滅多にない。自分の行為を他の者がやっているかどうかは、定かではない。
    でも………、
 自分の足先を見つめる。無意識に身体が動くのだ。敬意を払うべきだと思うと、自分は膝をついている。膝をつかなくとも、深く腰を折って頭を下げる。ラシュンに言われたように、無防備になった頭をよく仲間に叩かれていた。
    カヤは、撫でてくれてた…………
 気づくと低くなる自分の頭を撫でて、顔を上げさせてくれた。
「……っ」
 何か考えると、カヤのことを思い出してしまう。
 魂別れを………三度、名を呼んだ者のことは忘れなければいけない。でないと、御魂を抜かれ生きた屍になってしまう――――――忘れなければいけない。
 それは、必然なコト。
 噛み締めた唇から、血が滲む。身体も、震えだした。
    ………できない、
 子供がヌシ様へ迎え入れられた時、泣き叫び、嘆き続き、最後には何も見ず、何も喋らず、何もしなくなった母親がいた。呼びかけをしたのに、いつまでもいつまでも求め続けたために御魂が子を追ってしまったのだと、村の者達は息を吐き………そして、母親を湖へと送ったのだ。
 穴の開いた小船に乗った母親は、静かに湖へと迎えられていき、大きな波紋を残して消えた。小船に乗せられた時の、虚ろな表情は………今でも鮮明に浮びあがる。
 カヤを、忘れなければ―――この先、生きてはいけない。生きては、いけない……のに。
    できないよ、カヤ……っ
 喉がひきつり、小さな悲鳴がでる。
 たった一人の肉親を失い、自分の中からも無くさなければいけない事実を受け止めきれず、コウの息継ぎが、止まった。
 うまく出来ない息継ぎに、身体が震えだしたけれどどうすればいいかわからなくて、喘ぐだけだった。
 苦しさに意識が呑み込まれそうになった時、優しい風が頭を包んだ。
 ふわり、温かさを感じた。
「…………」
 力強さを讃える腕が見えた。大きな大きな手が、………自分の頭を撫でている。小さく動かすだけでも、大きな掌は温もりと優しさを伝えてくれる。
 男の腕が逞しく、掌が大きいのは大切なものを守るためだと、膝の上に自分を乗せてその大きな手で包みこんでくれた人を思い出す。
「とー、さん……」
 知らず、零れた音。止まっていた息が、小さく音を発して再び始まる。
 ヒゲツの表情から自分の呟いた言葉を認識して、顔が一気に熱くなった。
「ごめんなさい……っ」
 離れようとしたが、ヒゲツの手に力が入りそれは叶わなかった。
 また、優しく撫でられる。
「………」
 ヒゲツは何も言わずに、コウの頭に温かく触れた。
 おどおど、視線を上げると自分を見る目と重なる。
 何も言わず、けれど自分を拒むことなく見つめる瞳。
 すべてを、許される気がした。
 弱い自分――――カヤの存在にしがみつこうとする自分を許してもらえる、そんな安心感が胸に沁みて………頭を撫でる感触だけを残してコウは再び眠りの中へと落ちていった。
 次に目覚めた時、カヤの名を呼ぶことはなかった。
 自分が、どこにいるのか………少なくとも、家にはいないことをちゃんと解っていたから。
 はぁっと、熱を持った息が流れ出た。身体が重く、手足の感覚がなかった。緩慢に首を動かすと、踊るように身をくねらす木の置物が目に入った。ヒゲツと名乗った人の家には、たくさんの木があった。どれも葉はなく、幹だけだ。時には根もついている。それらは原型のままだったり、積み重ねられた木の時間を生かして別の生を与えられ、鎮座していものもあった。
 ごろごろ鳴る喉に空気を流し込むと、痛みと不快感を拭ってくれる香りが身体の内側に広がっていく。
 優しい香りに、深く呼吸する。
    木の、匂い……
 木の息吹に包まれた家だった。
 生臭さに麻痺している鼻でも、感じ取れることができる心地よさに力を抜いて、天井へと視線を向けた。
「あ……」
 自分の家ではない。それは、わかっている。けれど、自分の家と同じ天窓がある。
 コウは戸惑った。
 家を構成する組み木に天窓から落ちてくる光があたり、刻を知らせる影が生まれている。それは、コウの家だけにあった仕組みだった。
「今は―――大亀の弐の刻だ」
「何?」
「え……?」 
 聞こえた声に、コウは身体を起した、が………眩暈に襲われ、再び仰向けになる。
「無理するな」
 ぐらぐらする頭に届く声。うっすらと開けた視界に、人影が見えた。
「熱をだして二日間、意識がなかった。肉体はすぐに動いてはくれまい」
「二日………」
 もう、二日も経ったという。
 カヤがいなくなって、二日経った。あまり、実感がなかった。
 億劫に息を吐き出すと、聞いた事ない音が鼓膜を打つのに気づく。顔を横に向けると、ヒゲツ―――と名乗った人が、何か作業をしている。滑らかな音が、耳に届く。音の響きに、鼻孔を擽る香が乗っていた。
 木の、柔らかな匂いだった。
 ヒゲツが手を動かすと、薄くなった木がまるで魚の鱗のように煌いて、するりと、離れていく。初めて見るコトに、コウは魅入った。
「さっき―――」
 ふわりと舞った木の香にヒゲツの声が重なる。
「大亀の弐の刻、と言ったな」
 ヒゲツの声音には鋭さが感じられ、コウは自分の失態に喉を引き攣らせた。
   しまった……、
 両手で口を塞いだが、でてしまった言葉は消せない。ここは、自分の家ではないのだ。似ている造りに錯覚してしまったことを、酷く後悔する。自分の作り出した言葉が何を引き起こすか………身体を固くしたコウの耳を、ヒゲツの声が撫でた。
「解るのか?」
 ヒゲツの言葉は棘を含んだものではなく、次の言葉を綴らせる為に自分に問い掛けてくるものだった。
 相手が村の人間ではないということが、少しだけコウの緊張をほぐす。
「うん……、オレの家も同じだから」
 コウは、天井を見た。
「太陽が空にある時を、区切る仕組みが……あるんだ」
 コウの言葉に、ヒゲツが目を見開いた。変わったことをする〝キ〟の家と、村人に言われる時も今のヒゲツのように心の有り様が目に現われた。そして奇抜なものに対して窺う姿勢をとる。
 やはり自分の言うことはおかしいのだと、項垂れるコウにヒゲツの声が聞こえた。
「そうか………」
 そう言って、ヒゲツは意識をコウから外し、再び手を動かし始めた。軽やかな音がヒゲツの手から生まれる。同時に、胸を清める香も広がる。
「あの……」
「なんだ」
 手を止めず、コウに背を向けたままヒゲツは返事をした。
「あの、それだけ………?」
「何がだ?」
「何がって――――」
 逆に聞き返されて、言えなくなってしまう。自分の話すことは村で馬鹿にされる事が多い。けれど、そのことを自分から言う気にはなれず、コウは別のことを口にした。
「あの、どうして天道の知らせがあるの?」
「……何?」
 かたりと、ヒゲツは手にしていた小刀を脇に置いてコウへと身体を向けた。横になっているコウにとって上背があるヒゲツの目は高いところにあった。見下ろされる体勢に威圧感を覚え、無意識にコウは身体を丸める。
「何と、言った」
「え、だから……どうしてあるのかと、思って…………」
「違う。あれを、何と言い表した」
 ヒゲツの荒い声が、コウの身体を竦ませた。怒っているようにとれる口調に、やっぱり自分は何か、気に障ることをしたのだと震えそうになったが、じっと見てくる真っ直ぐな目に、小さな声でもう一度言った。
「天道の、知らせ………」
 ヒゲツは、瞠目した。
 微動だにせず、自分を見るヒゲツに「やっぱり、おかしい……のかな?」と、コウは怖々と呟いた。






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