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「ひとつ   内と外」の詳細記事: 彩

創作小説を掲載するブログです。 幻想世界を基本に書いていきます。

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ひとつ   内と外



 里の神のもとには人間が仕えている。
 山の神のもとには鬼が仕えている。

 物心ついたときから知っていたことを口ずさむ。里の者ならば、誰であろうと知っている当たり前の事だ。
 目を、窄める。
 眼下に広がる景色が、細長い光に凝縮されて眼底を刺激してきた。思った以上に強い刺激に、瞼を下ろしてすべての光を拒絶した。そして、呟く。
「もうすぐ、なのか……」
 あと七回。月の満ち欠けを七回見届けると、生まれ月を迎える。
 姿を隠した月が蘇るまでの朔(さく)と月が姿を晦まし続ける望(ぼう)。生まれる者達はいずれかに振り分けられ、月の蘇り又は月の晦ましを始めとして、年を重ねていく。
 あと七回、月の姿を見届けると十五の年を持った男女の髪上げの儀式を行う。
 長の息子である自分が成人する月を迎えるだけあって、里は盛大に儀式を行うようだ。
 遠く離れたここにさえ、その賑わいが伝わってくる。
「何も、今から準備することでもないだろうに……」
 肩を落として、息を吐く。
 ここでなら、自分の行いを咎める者もいない。だから、溜まった鬱憤を吐き出すつもりで、ここに来たのだ。
 里を一望できるこの場所は、境目。ここを越えれば山の者達の領域になり、深い緑の繁りに阻まれ里を望むことはできなくなる。里の者達はまず近づかない。
「天城(あまぎ)も、さすがにここまでこないだろう」
 もう一度、息を吐く。
 幼い頃から共に過ごす友であっても、今は一緒にいたくなかった。互いのことを知っているが故に、慰めの言葉を作ることができず、わかりきったことを何度も口にして宥めなければならない立場と納得しなければならない立場に分かれてしまう。それはとても居心地が悪かった。
 自分の立場はわかっている。わかっているが…………、理解したくない気持ちが、神経をささくれ立たせる。
 髪上げの儀式を終えれば、一人前だ。
 そして、近いうちに長と座することになる。床に臥すことが多くなった父に長としての務めは酷で、自分が後を継ぐことを、皆が望んでいるのがわかった。
 父も、思い通りにならなくなる体に苦笑いを浮かべながら、長となって里を導けと言う。
「……」
 実感が涌かなかった。胸の内に蟠る思いを言葉にすることもできず、重たい息を吐き出す。
 瞼を押し上げ、里を見る。
 整備された道を大きな影が歩いていくのが見えた。人影としては小さいものだけれど、影の主が抱えるものによって上半身だけが倍の大きさに膨れ上がっていて、見たことの無い巨躯の影を作っていた。
 髪上げの儀式と平行して、血の結びが準備されている。その時に使用する、夜の花だろう。切り開いた山に咲いていた花。夜の花と名が指す通り、人に見られるのを拒むかのようにひっそりと、夜に咲く。生み月を祝う舞に使われる肩巾(ひれ)のような繊細な花びらを広げ、月明かりの中、やわらかな曲線を描く。
 巨躯の影が大きく傾き、ぼとりぼとり、巨躯の影が千切れて地面に落ちていった。抱えきれずに落ちた夜の花が、地面に細い影を作っていく。残っていた夜の花をすべて使うのだろう。見ると、巨躯の形の影がいくつも道を歩いていた。近いうちに長となる自分の血の結び。その為に使う夜の花は残らず摘み取られてしまっただろう。
 夜闇の中、ほのかに輝く様が好きだったけれど、もう見れない。
 のそりと動く巨躯の影から目を逸らした。
「血を、交(か)わすのか」
 自分が、伴侶を得る。
 信じられなかった。伴侶を得るという意味は知っているが、そうしなければならない――――血のまじわりをしなければならないという、その必然性がわからない。それが、すぐそこまで来ているというのに、どこか遠いところで起こる、自分に関わりのない出来事のようで、空虚な言葉がでてくる。
 生まれる前からある約定に沿って血を交わすことを定められていた。伴侶になる相手は、決まっていた。
 湿った風が、髪を撫でる。じとりと、全身を撫でまわされている感覚に、大きく頭を振って、湧き起こった嫌悪感を振り払った。
 伴侶となる者。
 よく知る者だ。幼馴染で、近くにいた存在だったけれど……それだけだ。
 大輪の花のように、華やかに笑う子だ。いつも笑っていて欲しいと、そう思う。けれど、その思いは自分を賭して守りたいかと問うと………答えはでない。
 風に吹かれて視界の片隅で、名もない花が揺れるのが見えた。生い茂る草の中に咲く、小さな花。
 揺れる花を―――視界から消した。
 瞼を落とす。真っ暗な中で、いろいろと浮かび上がってくる。髪上げと血の結びの儀式。これから迎えるコトに意識を向けるのは億劫で、ただ息を繰り返すことだけに集中する。そうすると、やがて何も見えなくなって己の内側のみに向けられていた意識が、外へと解放された。
 土の湿った匂いと草の青さが、這入り込んでくる。
 ざらりと、木々の擦れあう音が響いたかと思うと、その合間を飛び交う鳥の気配。木霊する鳴き声が、さらに木々をざわめかせていく。
 遠くに響いていく鳥の声を追っていくと……、音が流れているのに気づく。
 絶え間なく流れ続ける音――水の調べ。
「星の、川……」
 ゆっくりと瞼を押し上げる。光と闇が綯い交ぜになって一瞬、目が眩む。片手で軽く目を押して刺激を和らげると、光と闇がそれぞれの線を描いていった。
「里の流れと違うな」
 山から里へと流れる川は、夜になると小さな光を抱く。星が落ちて川の中で瞬いているかのように、水底に光が転がっている。
 空から光の気配が消えると、輝く星の川。水底にある石が光を放ち瞬くのだが、何故石が光を生むのかは謎のまま。生み出される光景にちなんで星の川という名があるのだ。
 空を見上げると、彼方に見える砂の海に、太陽が沈み始めていた。
 ――星の川。
 里へと流れ込む水は、山の向こうに広がる砂の海を渡ってくると、聞いたことがある。空を貫くように聳える山々を越えると、一面を覆い尽くす乾いた大地、砂の海から……。
 冷たく清らかな水の音が聞こえる。
 生き物を焼く大地からどうして澄んだ水が流れてくるのか。細かな音を転がす流れを見つめる。
 里へと流れる水を辿ると、山が見えた。
「行って、みるか……」
 星の川を辿るだけ辿ってみようと、普段なら思いもしないことを行動してしまうのは、少しでも自分を取り巻くものから遠ざかりたいと思うからだ。
 水は、山を通って流れてくる。
 ――山、か……。
 鬼が棲むと謂われるトコロ。忌み嫌う言葉が多く伝わっているが、そこには恐れなど内容に思う。本当に恐れているのなら、山を切り開くことはしない。木々を倒し、草花を刈り取り、土を削り、山そのものを消すようなコトをしないだろう。
 里と山の境目。そこを、越えていく。未知の領域に踏み入ることに対して、恐れはなかった。寧ろ、誰も知らない領域に行ける喜びと、安堵に似た思いがあった。
 光が消えうせようとする刻。大木の影が深くなり、木々の合間を埋め尽くすよう繁る草木は網を張り巡らすように影を広げる。
 一歩、一歩。山へと近づくと、自分というものが周囲から切り離されてゆく感覚。次第に体が軽くなっていく。及び腰だった体を伸ばし、山の領域へと足を進めていく。
 随分と、歩いた。
 空は、赤味を帯びている。
「そろそろ戻らないと、さすがにまずいな」
 空を染めている赤は消え、すぐ夜が訪れる。
 ――ここまで、か。
 これ以上、進むことは出来ない。そう自分に言い聞かせると、力が抜けた。
 抜け落ちていく力にひかれるよう、そのまま座ってしまいたかった。けれど、そうしたら動けなくなると思って、膝に力を込める。
 自分の足元から生える影が、濃い。
 帰らなければならない。
 大きな息が出ていく。
 なかなか動こうとしない足を叱咤して、里へ戻ろうと踵を返した瞬間、視界の片隅を横切ったモノに、足が止まった。
「……?」
 ふわりふわり、木立の合間を泳ぐ、白い影。光の塊に見えたけれど……、それは人の形をしていた。
 山の神のもとには……ふいに、馴染んだ一説がよぎった。息が乱れるのを感じる。落ち着くために大きく息を吸い込むうとして、動けなくなった。
 白い影と、目が合った。
 思ったよりも、近いところにいる。鼓動が、大きな音を立てて体を揺さぶっていくけれど、口伝で表されるような陰鬱な雰囲気はない白い影に、興味を抱いた。
 幻想が、形を成したのかと思うほどにおぼろげな感じの……白いモノ。
 けれど、違う。
 目の前にいるのは、自分と同じものなのだろう。そう、思ったら確めずにはいられなかった。
「誰だ?」
 恐れは、なかった。夢心地で影を追おうとしたわけでもない。ただ知りたくて言葉をかけた。
 白い影――少女が、目を見開くのがわかった。
 その姿をよく見てみる。はじめに目がいったのは、白皙の肌。その白さを瞳に映して納得する。体を覆う白い衣服と同化しているように見える。自分と異なる装いに加え、少女の纏う真っ白な光が自分と同じ存在とは思えない雰囲気を作り出していたのだ。だから、薄闇の中で光る幻影と、そう思った。
「誰、だ……?」
 目の前にいる者を、知りたい。強い願望が、言葉になって響いていく。
「知りたければ、先に名乗るべきではないか?」
 けれど、自分の考えを嘲笑うかのように発せられた声。話ができるのだとわかると、改めてその存在に目をむける。そこに在るカタチに意識を向けようとして…………射ぬかれた。
 強い光を持つ目だった。すべてに挑むような、激しさ。内面を、覗き込もうとしているかのようだった。とても強い意志を感じる。
 一瞬、その強さに呑まれ我を失った。
 少女の瞳にひきこまれ、茫然と佇む。瞳の回りを彩る不可思議な光をもっと見てみたいと一歩、前に進み出たが、少女の目が訝しむように細められたのを見て、我を取り戻した。
 鼓動が鳴り響く。どくどくと、鼓動が聞こえる。その騒々しさにようやっと今の状況を把握しようと頭が動き出した。
 ――おもしろい。
 まずに浮かんだものを言葉にするならば、おもしろいという言葉が一番しっくりとくると、口端を上げる。こんなにも真っ直ぐにむかってくるとは、なんておもしろいんだろう。
 笑いをこらえたため、肩が揺れた。
「……が、」
 治まらない笑いに、声も震えた。少女が眉を顰めたが、なかなか呼吸が整わなかった。
「銀(しろがね)、だ」
 やっと、自分の名を音にする。正体の知れない相手と対しているというのに、笑みが消えない。さらに大きく笑って「で、お前は?」と名を問う。
 少女は、じっとこちらを見て「本当に、名乗るなんて……」と、眉を寄せた。
 訝しげに自分を見てくる少女に、銀はもう一度問う。
 名は――と。
 少女の目に動揺が浮かんだが、振り切るように目を閉じて、引き結んでいた唇を開いた。
「名は、ない」
「はぁ?」
 予想しなかった答えに、呆気に取られてしまったが……言われた意味を読んで、思わず眉間に力が入った。
「言いたく、ないか……」
「……」
 少女の眼差しが、揺れた――ような気がした。
「違う」
 淡々とした声が、響く。
「我等は、人としてではなく山の欠片として在るのだ。お前達のように、存在を明確にできる名はない」
 少女の髪が、風に遊ばれていく。弱くなった光をのせる髪は、里の者達と同じだ。深くて豊かな黒髪。寧ろ、色彩を持たずに生まれてきた自分の方が異質なものだ。肩口からこぼれ落ちる髪を背中へ押しやると、白い光が目をかすめた。赤い眼を細めて、風の戯れに揺れる白髪を見る。
「……」
 白髪に赤い目を持つ自分は、神の化身だと謂われるが――――そうは思わない。幼い頃ならいざ知らず、自分で見聞きし思考するようになってから、自分の存在が里の者達が望むようなものだとは、どうしても思えなくなった。彩りを持たぬ体。まるで無を表しているようなこの体は、ただ、里の者達の願望というもので塗り固められているだけではないかと、思えてならない。
 実りが減り続けている里が、都合の良い夢を見るために自分があるのではないかと……思えてならない。
 銀は、少し離れたところに立つ少女を見た。
 ――山の神に、仕える……。
 けれど、少女はどこからどう見ても里の者達と変わりない。
「名が、ないとは……」
 そんな馬鹿げたことを堂々と言うなんて、また笑いを浮かべた銀に、少女が淡々と述べてくる。
「それぞれに合った言葉をまとっているだけだ」
「それが、名だろう」
「違う、音を区切っただけの意味のない言葉の欠片だ」
 真っ直ぐに、自分を見て少女は言う。
「ふーん」
 よくわからなかったけれど、嘘を吐いているようには見えない。ふざけているようにも見えない。だからここは納得して、用は済んだと立ち去ろうとする少女を引きとめることに思案する。この場を後にしようとした横顔に、再び声をかける。
「では、俺がつける」
 気づけば言葉にしていた。口にした途端、自分が何を言ったのか理解できなかったけれど、瞠目した少女の顔が瞳に映ると自分の言動を考えることなど、どうでもよくなった。
「俺が、名をつける」
 今度は、ちゃんと言葉に力を込めていう。
 少女は、ひたすらに自分を見る。少し開いた唇からひゅるりと風が流れていて、淡白に見える少女の内面が窺えたが、自分の視線に気づき、唇を真一文字に引き結んだ。力を込めて結ばれた唇がより一層赤くなる。
 その、映える赤さに吸い込まれそうになる。
 白い肌と黒い髪。何も主張しない彩りのなかで唯一、色彩を持つ部位はやわらかく、暖かさそうで、そのまま見続けたら自分がどうにかなりそうだったので、銀は空を仰いだ。
「あ…」
 そこもまた、赤く彩られていた。
 最後の光に彩られる真っ赤な空。
 少女も自分の見る先を見定めようと、首を仰け反らせ……空に呑まれた。
 黄金(きん)の光に包まれて、様々な絢を生み出していく赤い空。
 銀の唇が、動いた。
「紅――、と。そう名乗ればいい」
 少女が、空を仰ぐのをやめ、自分を見た。
「……くれない?」
「こう書く」
 やわらかな土に指を押しつけ、音を形にする。赤い彩りに美しさを求めた、人の心を形にする。
「これが、紅。お前だ」
「……」
 何度も瞬く目が、自分を見た。
「どういうものだ?」
「どうって……、真っ赤な彩りのことだ」
 少女が、微かに喉を鳴らした。自分の言い方に納得できていないように見える少女にさらに言葉を並べる。
「そうだな、今の空のような鮮やかさだ」
 自分の指差す空へと、少女が目を向ける。赤という一つの色彩では言い表せれない空が、広がっている。
「人が、美しいと思った赤をそう言葉にした」
「美しい、赤を……」
 少女は、ゆっくり唇を動かしてゆく。
「くれない――紅、紅」
「そう、紅」
「それが……私」
 何度も呟いた後、少女はふわり、微笑んだ。先程の冷淡な表情から一変した顔(かんばせ)に、銀は息を呑む。
 光の粒が川面をゆらゆらと流れ出した。
 星の川から光が生まれはじめ、水の流れにたゆたう。青白い光が二人の姿を照らした。

  * * *

 幾重にも幾重にも、薄布(うすぬの)に覆われた空間。幽かにそよぐ絹のなめらかさをぼんやりと眺めながら思う。自分は、一体何を希んでいたのかと……。
 ――希み、
 何を、願っていたのだろうか。
 ゆるゆると緩慢に呼吸を続けながら、少し考えてみた。
 探していたモノなど……、あっただろうか。
 強いられるコトに抵抗を覚えたこともない。驚きはしたけれど、それはすぐに消えてなくなった。苦に思うことは、あっただろうか?
 さらさらと、絹が影を揺らす。薄く軽い絹は存在がつかみにくくて、境をなくし、影と戯れたり風と遊んだりしている。
 雲のようだと、思った。
 ――そういえば……。
 無性に、空を見たくなる時があったと、思い出す。どこまでも限りなく広がる空が見せる変化を見たいと、よく上を見ることがあった。
 顎をそらして、上を見上げる。
「……」
 ゆらめく薄布の底に見えたのは冷たく硬い石の天井。何度も目にした閉塞感。
 そうかと、納得して目を閉じた。
 希むたびに塞がれた空間を認識する。その度に言い表せれない気持ちが胸を塞いでいくのを感じ、希むことをやめたのだった。
 息を吐くと、力が抜けていった。
 もう、駄目だと思った。
 ただ、言われるがまま動き続けて、動き続けて、そして動けなくなってしまった。
 何もない自分を動かすには、もう力がなかった。
 曖昧で不明瞭な自分が存在し続けるには、限界なのだろう。
 清潔に整えられている寝具に投げ捨てられている、肢体。自分の体。けれど、実感がわかない。腕をゆっくりと視界に入れた。
「……」
 透けて見える静脈の動きが、生々しい。
 生気の失せた体の中を動くものは、はたして血だろうか。細い影を作る腕。筋力の衰えは傍目でわかる。全身がこの腕のように衰えているのだろう。
 小さく息を吐いて身じろぐと、金属のふれあう音が室内に響いた。
 足に嵌められた枷が、動くとちりちりと音を発する。その音は、薄笑いを浮かべる男を思い出させた。
『逃れる術はない』
 そう言って、笑った男。ぼんやりと浮かびあがってきた記憶を眺めていたが、またたきした合間に霧散していった。
 何から逃げるというのだろうか。
 何もない自分が、何から逃げるというか。どこに行くというのか。
 視界の端で、薄布が風に揺れた。
 息を吐く。
 初めてココに来た時は、もっと薄暗くて冷たいトコロにいた。鉄格子に隔てられた空間がひしめくソコは、騒々しかった。甲高い笑い声や怒鳴り声、啜り泣きや悲鳴が聞こえてきて……耳を塞いで体を丸めてもなかなか眠れなかった。
 けれど、そこに長くいることはなかった。
 錠が外れる音と共に強く腕を引かれて、今の部屋に移された。この部屋に来るまで向けられた幾多数多の目は、様々な感情を宿していて、眩暈がしたのを覚えている。
 また息が零れそうになる。そんなことをすると、胸に鉛が溜まっていくように重くなって、益々気だるくなる。唇を引き結び、息を呑み込むと瞼を下ろした。
 漠然として定まらない世界から、自分を切り離す。
 まどろみの中へ意識を沈めるのは疲れるから、こうやって自分を取り囲む曖昧なものを見ないようにする。自分というものが、転がった石と同じようになる。あってもなくてもどうでもいいモノ。そうなると、とても楽になった。
 どれだけそうしていただろう。
 風が、頬を撫でた。
 天井から吊るされた紗が揺れて、かさかさと鳴る。焚かれた香の煙も揺れる。衣擦れの音がした。紗をかきわけ、近づいてくる足音。
 ココに在るモノに触れることを許されている者は、一人。年老いた女は天井から吊られた紗すら触れることは許されていない。老いた体を懸命に動かして、自分を甲斐甲斐しく世話してくれる老婆は、よく見えぬ目なのに、とても繊細な動きをして自分を生かそうとする。ただ、消費を重ねるだけの無意味な存在に、必死になる。生かせと、命じられているからだろう。
 ココで唯一意志を持つことが出来る男が、そう命じた。
 衣擦れの音が、すぐ傍でした。
 目を開けると、男の顔が見えた。目の力が衰えたのか、うまく像が結べていない。うすぼんやりとしか、見えない。男の後ろに幾人かいるようだった。老婆以外の者が入ってくるのは、初めてだ。そのことに軽くまたたくと、男の顔が近づいてきた。
「印をつける」
 生温かい感触が耳朶を撫でつけ「お前は、俺の物」と、ねっとりとした言葉が、内側に這入りこんできた。
「どこにいようと、わかるように印す」
 蟒という名の男はとても嬉しそうに笑って、髪を一房すくいあげ……口づけた。
 男の指先から流れて戻ってくる髪を見ていると、突然、視界を塞がれた。
 暗転した視界に、そのまま意識が沈みそうになったが予期せぬ痛みに、目を見開く。真っ暗で何も見えない中、痛みだけが克明に伝わってきて恐怖に身を捻ると、押さえつけられていた視界が戻った。あれだけぼやけていた世界が、駆け巡る衝撃に正しい像を結び、目の中に飛び込んでくる。
 まだ、自分は生きているということが、体を突き抜ける痛みによって知る。
 耐え切れず、声がでた。
「痛むか?」
 何も答えず、不規則な呼吸を繰り返していると、傷口に爪を立てられ肉を抉られた。
「ああぁ……」
 知らずに握り締めていたものに縋るよう力を込めると蟒が息を詰まらせた。蟒の腕だった。不用意に触られるのを嫌う男に、皮膚を傷つけるほどにしがみついている。なのに、男は不快さを表すことはせず、顔を覗き込んできた。
 痛みに跳ね上がった瞬間、男と目が合う。満足げな笑みを浮かべていた。
「すぐに慣れる」
 男の顔を彩る刺青の鮮やかさがぐにゃりとうねりだし、曲がりくねりながら視界一杯に広がっていく。突然の変化に、粟立った。とても表現できない、不可解な世界がぐるぐると目の前に現れる。
 男の顔を離れた彩りが、宙を泳いでくねくねと踊っている。妖しい光を帯びて踊る彩りは鮮やかな文様を振る舞いながら、宙を泳いでいく。
 似たような文様が、自分の足に刻まれていくのを……薄れていく意識の中で見る。視界いっぱいに広がる鮮やかで妖しい彩り。
 最後にくねりと、自分の肌の上で文様が踊った。
「これはお前の生きる証だ」
 その言葉が、刺し込まれていく色彩と一緒に自分の内側に刻み込まれる。それと同時に、息をするのが、楽になったような気がした。
「ショウビ」
 男が、呼ぶ。
 自分を、そう呼ぶ。
 けれど、応えることはできない。
 ――違う。
 浮かび上がった拒絶の気持ちを、ちゃんと理解する前に妖しげな踊りを繰り広げる現実の中に呑まれていった。













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