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「みっつ   穢れと憎しみと悲しみ 後編」の詳細記事: 彩

創作小説を掲載するブログです。 幻想世界を基本に書いていきます。

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みっつ   穢れと憎しみと悲しみ 後編




 いつもとは違う道を辿って山を降りたら、ずいぶん里に近いところにでて慌てて、星の川を辿って岩屋へと向かった。
 葦の繁みを掻き分けていると、横たわる影を見つけて、瞠目した。
 涙を流し、空を見上げる里の者。
 流れる雫に気づいていないのか、虚ろな目に赤い空が映っていて…………不思議な色合いに、佇んでしまった。
 待ち人のことを思うと、少しでも早く約束した場所に行くべきだ。早く、会いたい。なのに、空を見上げ泣く人影から目を離すことが出来ない。
 その目が、自分を見た。そして……濁った音をぶつけられて、戸惑った。
 光が薄れて、影が濃くなっているとはいえ、男の顔はひどく陰っている。そして、初めて会ったはずの自分にむける眼差しは、山の者に対しての嫌悪感、それだけでは言い表すことのできない異様さを持っている。男から逃れたいと、無意識に体が動いたが、それよりも速く、襟を摑まれた。
「消えろ」
 耳元で、そう囁かれ、足が浮き上がるほど強引に引き寄せられた。驚きに目を剥き、咄嗟に体を捻るが、敵わず引き倒される。
「……!」
 背中を強打し、衝撃に息が止まった。痛みが広がってくる。痛みに痺れる体に男が圧し掛かってきた。
「や…っ」
 視界を塞ぐ、大きな影。迫ってきた手が首に絡みつき、締め付ける。
「――!」
 息ができない、その事実に口が大きく開くが、ひゅるりと風が鳴っただけで声がでてこない。怖くなって……体中で、叫んだ。嫌だ、と。自分という存在が消えてしまうことに恐怖して、喚く。ここで、終わらされることを拒み、嫌だと、訴える。
 けれど絡みつく指は、押さえつける腕は自分の意に関係なく、首に食い込んでくる。
 力が、自分の命を絶とうとする意志が、一段と強くなって……恐怖にひきつる手が腰紐に挟んであったモノを握りこんだ。
 柄に触れる掌が、独特の冷たさに戦慄く。滑り止めも兼ねた飾り布に覆われていても、鋭利な冷たさが、触れた瞬間に伝わる。命を絶つことのできる、冷徹な強さを示してくる。
 ソレを持っていることを意識したくなくて、腰紐に捻じ込むと隠すように背中へやった。そうすると、存在を忘れることができた。短くとも、命を奪うには充分の剛さを持つソレを、自分が持っていると思いたくなかった。
「ぐ、…ぅ」
 空気が、入ってこない。
 ぎりり、肉が押し潰される感触が伝わってきて、意識すら押し潰そうとする。
 一瞬、力が抜けて柄から手が離れ、指先が鞘から抜き出た刃に触れた。
 ――あ、
 苦しさで何もわからなくなっていたのに、血が滴り落ちたのを感じた。朦朧とする意識の中で指先が切れたと判ったら、一つの事実を思い出す。
 自分は、手にしている。
 叡智を……退魔の叡智を、持っているのだ。
 己に降りかかってくる魔を退ける力を持っているのだ。苦しさに呑み込まれようとする意識が、手にするチカラでかろうじて繋ぎ止めれる。
 はたり、血が滴っていくのを感じる。
 ――魔を、退けれる。
 そう思った瞬間、手にした叡智を、自分を握り潰そうとするモノに突き立てた。
 鈍い感触が、伝わってきた。
 首の圧迫がなくなり、突然流れ込んできた空気に体が驚き、跳ね上がった。はずみで、突き立てた退魔の叡智を抜く。生温かい雫が顔にかかった。けれど、空気を求める体が暴れ、気にとめることができない。

 山の者と呼ばれる者も、里の者と呼ばれる者も……自分を護るのに必死だった。それだけだった。
 生きがいを奪われようとする者、命を絶たれようとされる者。必死に足掻き、そして、ぶつかり合ったのだ。

 衝撃が、胸を穿ったと思った。胸元を見ると…………細い指が映る。
 細く白い指が握りしめるモノが、自分の胸に突き立っている。胸に埋まりきらなかった刃が、斜光を弾き、眩しさに目を細めた瞬間、ソレは引き抜かれ仰け反った自分から何かが噴き出すのを感じた。
 胸から溢れるものは、赤く、熱かった。
 流れ出る血を見つめて、天城は一つまたたく。
「これが……」
 自分の最期なのかと、天城は口端を吊り上げた。
「は、ははは」
 何故か、笑いがこみ上げて、止まらなくなった。
 止まらない、熱い滴りを掌で受け止め、空よりも赤く、深いその彩りを見て、腹をかかえながら笑い、蹲る。
 呆然と笑い声を聞いていた山の者は、その場に座り込み項垂れた。ちぢれに乱れた髪が風に流れ、赤い空に染められる。
 山の者の乱れた胸元から、光が落ちた。
 それは、この場に相応しくない美しさを零す。
 ひらりと舞う光が天城の虚ろな目を横切った時、天城の目に輝きが戻った。
「それ、は……」
 天城は、山の者の胸元で揺れる翆玉を凝視した。そして、定まらぬ視線を自分に向けさせる為、腕を摑む。びくりと体を震わせ、自分を瞳に映した少女の容貌に、言葉を失う。
 母の眼差し――――不思議な彩りだと、父に褒められていた母と自分と……同じ目を持っていた。そして、母の面影が濃くある容貌。
 今、気づいた。
 山の者、と。その言葉だけで決めつけ、少女自身を見ようとしなかったから、わからなかった。山の者。だたそれだけのモノとしか捉えていなかった。
「お前は……、まさか」
 言葉は、続かなかった。
 力んだことで血が勢いよく噴き出し、少女を染めていく。短い悲鳴を残して立ち去ろうとする背中に手を伸ばすが、届かない。
「ま……、まって……く、れ」
 覚束無い足取りで遠ざかっていく影に呼びかけるけれど、声は届かない。
 けれど天城は語りかけるのを、止めなかった。
「お前は、もしかして――」
 怒りと憎しみと悲しみと憤りで、思い出せなくなっていた光景を必死に探りながら、言葉を綴る。
「母の……父と、母の」
 兄になるのですよと、微笑んだ母。
「俺の、大切な」
 母のお腹が大きくなっていくのが気味悪くて、そのことを父に話すと叱られた。お前も同じだったと、眼差しを和らげて言ってくれた。自らで息するその瞬間を、今か今かと待ち望まれて、慈しみ、育まれ。そして生まれて来たのだと、教えてくれた。
 待っていた。
「ずっと……」
 ずっと、待っていたのだ。
 新しい家族が生まれる、その時を。
「待って……た、んだ」
 空が、赤かった。
 どれぐらい、そうしていたのだろうか。空は、ぞっとするほどに赤く、美しい。それを目に映しながら、自分の胸を押さえる。ずるりと、手が滑った。うまく、力が入らない。息も、上手くできない。何も――感じなくなっていく。ただ、自分の中からナニかが流れ落ちていく感覚だけが、鮮明に伝わってくる。
 ――ここで、
 終わるのだと、冷たく固っていく手足に、天城は瞼を閉じようとしたが、視界の端に映った影に気づき、瞼に力を込めた。
 傍らに、誰かが立っている。
 静かに見下ろしてくる目。
「ここで、終わりだ」
 男が、そう言った。少女でなかったことに落胆して瞼を下ろそうとすると、男が強い口調で話してきた。
「俺が、終わらせる。恨むなら、俺を恨め」
 まだ寝るなと言われている様で、ぼやけてはっきりしない視界に男を映した。
「アカに、お前の命を背負わせるわけにはいかない」
 そう言って、男は自分の胸元にある石を掴み、引き千切った。
「お前を、背負わせる訳には…………」
 男の手の中で光るそれは、少女が身に着けていたものと同じ。
 父の胸元に残っていた。一つの翆玉を二つに割り、首飾りに仕立てたのだと、言っていた。対となる母のは……なかった。お腹にいたはずの赤子もいなかった。けれど、父も母も、獣に食い散らかされ形が崩れていたから、赤子は飛び散った肉片のいずれかだと思った。
 生を受ける前に形を無くしてしまった、命。
 里の長と他所の里から来たという者達の父と母への所業に、気を失った。そして目を開けた時、一面にあった赤い水溜りと黒っぽい肉塊に何が起こったのか、わからなかった。自分の気配に気づいて立ち去っていく獣達の影を見てようやく、状況を理解できた。
 大地を染めた鮮やかさを茫然と見つめ――――絶叫を放った。ほとばしった絶叫はなかなか止まらず、赤く染まった空と大地に響いていった。
 自分を喰っていかなかった獣を、ひどく恨んだ。父と母と、生まれてくるはずだった命と一緒に腸に納めてくれれば、独りになることはなかったのに……。
 この時、自分は闇を宿した。赤黒く腐った闇が自分の内から消えたことはなかった。生き残ったことをひどく疎みながら生き、そして……終わろうとしている。
 隠すように翆玉を握り締めた男の所作から、天城は「そうか」と呟く。
 父と母と赤子を弔うことなど思いつかず、叫び続けた自分は気づけば里にいた。大切な家族を見送ることをせず、一人、生き続けることに抱え込んだ闇が深まったが……。
 ――すべてを、失ったわけではなかった。
 息をするのが楽になったのを感じる。
 瞳に男の姿を映し、すべてを任せるように天城は目を閉じていく。
「許せ」
 男が短くそう言ったのが、彼方から聞こえた。
 赤く赤く染まっていく空が光を吸い込み、姿形は影だけでしかわからなくなっていく。さわさわ、さわさわ、なびく葦は影を互いに絡め合い編み籠へと変貌する。さわさわと、自分達の縄張りで起こった出来事が広まらないように、強固な空間を作り出す。その中で二つの人影が重なり合っていた。
 しばらくして影の一つが立ち上がり、空を仰ぎ見る。横たわったままの影は、動くことはない。
 鳥が、赤い空を飛んでいた。仲間に呼びかけるその声が、とても物悲しい響きに思えて、ヒドリは目を細めた。
 鳥が、赤い空を横切っていく。それを追っていると、右手に違和感を覚えた。
「……」
 手についた赤い。乾いて皮膚の表面を引き攣らせている。右手が握りしめている叡智は、赤黒く輝く。袖の布地を引き裂いてこびりついた赤を拭い取り、刃を包み隠した。鞘は、ない。この叡智を揮った者が、まだ持っているのだろう。その事実に、後悔の念が押し寄せてきて布地に包まれた叡智を握り締めた。鋭い刃は、たやすく布地を通り越して掌に食い込む。
「何故、渡した……?」
 何故、叡智を渡したのだと、自分をなじる。
 里が危険なのは、承知している。世界を拒み閉じ籠もった命は腐っていくしかないのだ。流れを塞き止め、理を都合のいいように歪めている者達に、生きる力は生まれない。アカもわかっていただろう。命の息吹を感じて生きる山の者として、自分達のいいように命を扱う里には先へと続く道がないことを。
 退魔の叡智を渡す必要はどこにもなかった。アカの力なら、山を生き抜いてきたアカならば、頼ることに身を任せた里の者から逃れるのは造作ない。
 ――なのに、何故……渡した?
 命を壊すために生み出された叡智を、どうして持たせたのか。
 壊すだけのものは、使い方を間違えればそれを揮う者すら傷つける。
「アカ……」
 ここに居させてはいけない。
 ココは、壊れている。
 滅びを望む者達が住まう地だ。


 荒い息が鼓動を速め、速まる鼓動が足を急かせる。
 逃げるようにして天城から離れた――そのことが、足取りを重くさせる。後ろめたい思いに囚われないように、足を進めていく。次第に足場が悪くなり、木々の繁りも深くなった。里の領域を抜けようとしているのだ。もうすぐ、約束した場所に着く。
 ――紅。
 今すぐ会いたくて、銀は駆け続ける。
 岩屋が見えてきた。
 いくつもの大きな岩が重なり合って雨宿りができる空間がある場所。山の者はそこを岩屋と呼んでいると紅が教えてくれた。
 自分には名をつけないのに、場所にはつけるのかと尋ねると場所だからつけると豪語された。
 自分に名を持たないからこそ場所に名をつけ、その名の由来を知り、道標を共有する。そうすると場所を通じて交流が深まっていき、自分という存在が明確になるのだと。独りで行動することが多い、山の者の独特な考えを知った。
 紅は、一番上に重なる岩に立っていた。空が近いと、二人で登ったところだけれど、今にも身を乗り出しそうなその佇まいに眉を顰め銀は、紅のもとへ急いだ。
「紅!」
 聞こえないのか、紅は俯いていた。
 紅の立つ大岩の下には、星の川が唸っている。里に近いところは拓けていて穏やかな流れになるが、この辺りは流れが速く、耳と突く音を発し、水飛沫が散らす。そして、至る所に転がる岩にぶつかって烈しさを増し渦巻くこともある。
 跳ね上がった水飛沫が、紅の髪や顔にかかっている。銀は駆けた。
 呑みこまれて、どこかに行ってしまう――――そんな感覚がわけもなく襲い掛かってきて、足を酷使して紅のもとへと急ぐ。手を伸ばせば触れられるまでに近づくと、ようやく銀の気配に気づき、紅はゆっくりと振り向いた。
「くれ――」
 銀は、目を剥いた。
 ――山の者、
 その言葉が頭をよぎる。そして、天城の言葉が…………嘲笑った天城の表情と共に、甦る。

『本当に、知っているのか?』

 天城の言葉に、穿たれる。その言葉は、今見えるものを歪めていく。
 赤い彩りに染まっている、コレは……何だ?
 見えるもの、すべてが捻れて混ざり合って、立っていられなくなる。自分というモノが覚束なっていく中、響く。

『妖しの存在だ』

 天城の言葉が、拠り所のように思えた。
「銀…」
 紅という名のごとく、赤く染まっている姿を瞳に映して、銀は立ち尽くす。赤く染まるソレは、自分を呼び、赤い手を自分に向かけて伸ばしてくる。
「私――」
「山の、……山には鬼が」
「銀?」
 紅の頬から赤い雫が流れる。
 ぽつり、大地に滲みていく赤いモノ。
 体中を駆け巡った衝動を吐き出したくて、銀は唇を動かした。
「お前は、山の者だ」
 声が赤い空に呑みこまれていくのを感じて、初めて生み出した言葉の意味に気づく。
「あ、……紅」
 紅は、黙って銀を見る。
 またたくことを忘れた目は、じっと、銀を見つめた。
「紅、俺は――」
 山の者。
 侮蔑を込めて言い放った天城。自分は今、同じことをした。
 ――そんなことは、ない……。
 自分は、紅を想っている。

『慣れぬ女の扱いを面白がっているだけだ』

 天城の言葉が、身の内にひしめいて……思考がまとまらない。
「違う」
 自分の心が、わからなくなっていく。
「違う、俺は……紅」
 自分を凝視する目。不思議な彩りを帯びた目が、逸らされた。
「紅!」
 紅は静かに銀から離れていく。
 艶やかな髪が視界の端に消えていくのを見て、寒気が走った。
 今、離れたら――二度と会えない。
 二度と、会えないだろう。
 確信めいた予感に、無意識に体が動いた。
 立ち去ろうとした紅の手をつかもうと伸ばされる銀の手。けれど、それよりも早く鋭い音が紅の動きを止めさせた。
 擦れた声が、耳を衝いた。それが……紅の発した悲鳴だったと気づくのにはずいぶんと、時間が必要だった。
「な…っ」
 矢が、左の胸に突き刺さっている。
 驚愕する銀の鼓膜を再び震わせる、音。
 ひゅぅん、と鳴った矢は紅の右の太腿に突き刺さった。
「紅!」
 紅の体が、倒れていく。倒れる先には、激しい水飛沫を飛ばす星の川がある。
「く――」
 伸ばした手は、宙をつかんだ。
 何もつかんでいない自分の手に息を呑み、岩の縁から身を乗り出す。ゆっくりと。髪のたなびく様までわかるぐらいにゆっくりと、落ちていく影があった。
 落ちていく先は、水の流れの中。
 激しく流れる星の川に呑まれた紅は、頼りなく手を伸ばしたが……すぐ流れに呑みこまれ、見えなくなった。
「……」
 星の川がうねり、ゴゥゴゥと音が渦を巻いている。紅の姿はどこにも見当たらない。下流へ、里の方へと流されたのか。
 ――いいや、そうとは……。
 里と山の境辺りで星の川はいくつもの流れに分かれる。里へ流れこむ星の川は穏やかだが、他の流れは違う。中には地中に向かって流れているものもある。
 紅がどこにいったかは、わからなかった。
 轟く、星の川。
 そういえば、この辺りは星の川とは言わない。
 鳴戸(なると)と呼んでいると、紅が教えてくれた。音を巻き上げ、ここからいくつもの流れに分かれていく川。この流れに乗って、新たな地へと旅立つ山の者がいるとも、言っていた。
 ――紅は、どこに……。
 茫洋と流れを見つめる銀に「よかった」と浮かれた声が聞こえた。
 よく知るその声に銀は目を剥き、繁みから出てくる者を凝望した。美しい衣を汚し、裾を綻ばせたりんが立っていた。ほつれた髪が、顔に影を落とす。貴き血脈の娘として恥ずかしくないよう、常に装いに気を配っていたのに。
 家宝だと、自慢していた弓を手に自分の傍にくると華やかに笑って「銀」と言った。
「…りん」
 幼馴染の少女は、嬉しそうに自分に目を向ける。
「なぁに、銀」
 いつもと変わらないその受け答えに、銀はすぐには答えられなかった。
「りん、お前……お前がこんなことを…………」
 それ以上、言葉がでてこなかった。ただ、唇が小刻みに震えて、とまらない。
 銀の様相に首を傾げ、りんはしっかりとした足取りで崖の縁に立つと、川を見つめて、嬉しそうに笑う。
「よかった」
 ふふふと、空気を揺らす笑い。
「よかった、本当に」
 ね、銀と。りんは笑った。
「これで大丈夫」
 くるりと、踊るように回って銀の傍に立つと「もう大丈夫だよ、銀」と銀の袖を握り締めた。
「怖かったでしょう? 銀」
 鬼はもういないよと、りんは言った。
「鬼はもういない。山にも……いない」
 どこにもいないと、空にむかって高々に言う。うわん、と空へと響き、音の余韻が消える前に今度は銀にむかって、りんは言う。
「私達、契りを結ぶんだよ」
 りんの腰にくくり付けられた筒には矢が数本入っている。りんの動きに合わせて、矢羽の鮮やかさが目の端でちらちらと舞う。
「ずぅっと、一緒」
 一緒だね――と、嬉しそうにりんは笑う。
「……」
「どうしたの、銀?」
 覗きこんでくるりんから顔を背け、銀は呟くように名を呼んだ。
「…りん」
 銀は、痛みに息を乱した。目の前の少女に宿る、灼熱のごとく滾る焔を見て……眩暈がした。
 契りを交わす前の女子(おなご)は名を隠す。音を記す文字を添い遂げる相手に明かして、初めて公に言うことができ、それによって女子は正式に里の一員とされるのだ。
 きっと、この少女には尽きることのない焔の名が与えられているのだろう。そう思うと同時に、銀は知った。
 互いを呼び合う意味の重さに、気づく。
 自分はもう、契りを交わしているのだ。
 自分が名を与え、初めて呼びかけた者がすでにいるのだ。
 焔が宿るりんの瞳――けれど、焔の燃え滾る明るさが、空のように広く澄んだ彩りを纏った瞳へと、移り替わる。
 ――空を宿す紅の眼は……綺麗だ。
 銀は、ゆっくりと指に力を入れ……きつく袖を握り締めるりんの手を解いていった。
「銀」
 激しく燃える瞳が、揺らいだのに、口の中に苦みが広がるが、銀の指の動きは、止まらない。少しずつ、りんを解いていく。
「銀」
 銀へとひたむきに向けられる眼差しとはうって変わって、弱々しい声。
「イヤ……嫌だよ、銀」
 震えるりんの声。
「あんなモノのところになんか、行かないで」
 銀――と。りんは、自分を苦しめて辛い想いを抱かせる者の名を呼ぶ。憎らしい者の名を呼んで……りんは弦に手をかけ、自分を貪る想いを吐き出すかのように矢を銀に向けた。
「りん」
 定められた矢先を見据え、銀はりんと向き合う。
「あんな……異形の、山の者なんて」
「俺のほうが異形だよ、りん」
「え…」
「俺こそ、おかしなモノだ」
 銀は、嘲笑う。
 ずっと、思っていたことだ。真っ白な髪に赤い眼。どう見ても、不気味だ。おかしい存在だ。
「俺は――」
「銀は長様の息子で、私の伴侶となるの! 里の者として生きてきて、これからも生きる。皆知っていることよ、今更何を言うのっ」
「……」
 金切り声で発せされる言葉に、心が冷えていくのを銀は感じた。
 りんの言う通りだ。自分は、そういうモノだ。神から恩寵を受けた証と、この容姿は褒め称えられる。
 けれど、違うと――ずっと、ずっとずっと思い続けていた。
 自分は、違う。
 皆が思うようなモノではない。神と関わりあえるような存在ではない。
 色彩を持たぬ、ただの人間だ。
 里の者達が誉めそやす自分とは違う自分がいるのだと、それを見つけたいと、渇望していた。ずっとずっと、求めていたのだ。
「紅……」
 銀の呟きに、りんの肩が強張った。
「嫌……嫌だ、銀!」
 弦を引き絞るりんの手が強張った。
「行かないで。行かないと、そう言って」
 震える矢先が、銀を狙う。
「銀! 行かないって――」
「りん」
 激情に振り回されてるりんを鎮めるよう、名を呼ぶ。そして、りんが自分と目を合わせたのを見て、銀は、首を横に振った。
 見開かれるりんの目から零れる、涙。
 また泣かせてしまった。大事な幼馴染を悲しませた。けれど、銀はりんから目を逸らすことをせず、自分の意志を伝えた。
 もう、紅を傷つけることはしたくなかった。
 紅を、裏切ることはしたくない。
「銀……」
 名を呼ばれるが、応えることはできない。
 りんの顔からすぅっと表情が消え失せた。あれほど感情に揺さ振られていた体もぴたりと止まり――――そして、迷いのない美しい動作で矢を放った。
 鳴戸の発する音を裂く音が銀を貫き、そして怒涛の流れへと誘っていった。


 ――苦しい。
 冷たく激しい水に苛まれた体よりも、内を蝕む痛みに吐息を震わせた。
「……紅」
 その名が、口から零れると…………赤い色彩で構成された光景が、観えた。
「くれ、な……」
 赤く染められた空よりも、濃厚に染まっていた紅を貫いた、矢。羽の白さが、目を衝く。
「紅…!」
 ゆっくりと落ちていく体を追おうと、銀は跳ね起きたが――――全身を駆け抜けた痛みに再び横に転がった。
 自分の息遣いとは思えない乱れた音が口から飛び出てきて、うるさい。
「く……な、い」
「骨が折れている。胸のところ……息をするにも痛みが生まれる。他にも折れているな」
「…っ」
 すぅっと、伸びてきた手に気づくと同時に体を強く押されて、一瞬、呼吸が止まった。
「運がいい奴だな。里へ向かう流れに乗るとは」
 薄く開けた目に見知らぬ男が映った。全身を駆け巡った痛みが退き、徐々に戻ってきた感覚に体を動かすとするが、制するように男が言う。
「お前が、アカを惑わした者か……」
 目の前の男は、呟くような小さな声で言葉を放ったが、鋭さを持つその響きに……胸がざわめいた。
「アカは、もう山に戻れない」
「……?」
「お前が、そうした」
「アカ、とは……?」
 淡々と言葉を吐いていた男の表情が、一変する。
「お前が――」
 息苦しいまでの眼差しに、銀は喉を引き攣らせる。男の意志が圧し掛かって、その強さに言葉がからまった。
「アカに、名を与えて山から切り離した」
「ぐ、ぁあ…!」
 肩に突き立っていた矢を力任せに引き抜かれ、銀は叫んだ。
「アカは、紅のことを……」
 声を絞り出して男に問う。
「紅…、紅は、どこに――」
 混迷する思考に視界がはっきりとしない。痛みが、意識を遠ざけようとする。けれど、銀は紅を求めて辺りを探りだした。
 這いずる銀を、男は睥睨する。
「……お前らは、どこまで壊せば気が済む」
 凍てついた眼差しが、銀に向けられる。
「どれだけ奪っていく」
 淡々と放たれる言葉にこめられた憎悪に、銀は体が硬直するのを感じた。
「彼方にある砂の海。あれはお前ら里の者達が生んだものだ。奪えるだけ奪い、壊した結果……大地は枯れ、砕かれ砂になった。命を育む懐ではなくなった」
 彼方に広がる、砂だけしかない大地。空の光の吸い込む終わりの地。里ではそう知られているだけ。けれど、否と男は言う。光と熱で命を吸い取る大地が、今とは違う姿があった事実を男は語る。
「砂の海は、違ったのか……?」
「昔のことだ。遠い昔の出来事のことだ。だが、それはお前らが今でも行っていることだ。お前らが今の里を築く時、地脈と水脈のことを考えず木を切り倒し、大地を削っていった。そんなことをすれば雨水が暴走してしまうのに……だが、お前達は忠告を聞かなかった。そればかりか、里が濁流に呑みこまれると忠告をした山の者を捕らえ、殺めた」
「な、に……?」
 眩暈がした。
 ――俺は、何をして……。
 すべてじゃないのだ。見えているものが、すべてではない。知っていると思うことがすべてではない。
 ――紅。
 嫌だった。自分のすべてを了承しているという里の者達に、憤りを覚えていた。いつも思っていた。自分を、見て欲しいと……言いたかった。生来からあったモノではなく、自分で築こうとするモノを知って欲しいと、言いたかった。その願いが伝わらない悲しさを、自分は知っていたのに。
 ――紅は……、
 どうして、紅は赤く染まっていたのだろう。
 伸ばされた手は、自分を求めていたのに……助けを求めていたのに。
「お前らがどれだけ奪いつくそうと、壊れぬものがあるのだと……我等は信じ、伝えていく」
 銀の虚ろの目が動く。
「紅……、紅は」
「アカは、もう山には戻れない」
 苦しげに吐き出される言葉。
「どこにも戻れない……お前が、そうした」
 断言する男の目から、涙が零れた。
「アカを、殺した」
 落ちていく雫を追ってゆくと……憎悪、だけでは言い表せれない目を見た。
「生きるための糧ではなく、満ちたりたいという欲の為に喰らい尽くす……お前ら里の者に、アカは……里の者に」
 昂る感情に体を震わせる男の様相に、銀はすぅっと頭が冴えるのを感じた。
「欲することが、いけないのか?」
 気づくと、口にしていた。浮んだ思いを、男にぶつけていた。
「何…?」
 少し動かしただけで激痛が走る。肩から流れる血は止まらなく、水に濡れた体は急激に冷えていく。けれど、そんなことに構っていられなかった。銀は立ち上がり、男と視線を合わせる。
「山の者は、関わりを持たぬと聞く。名を持たぬのも、繋がりを深くしないためだと……何ものにも囚われずに生きる為に」
 アカという音で呼ばれていた少女に、名を与えたのは自分。興味があったからだ。山の者。その存在を目の前にしての、興味からだ。
 ――そうだった。
 銀は、ゆっくりと息を吐き出した。体が重く、ぼやける視界を定めようとすると、痛みが走る。けれど、ここで意識を失う訳にはいかない。
 言わなければ、ならない。
 この男に、言っておきたい。
「独りで生きるその姿は神々しく思える」
 ただおもしろいと思った。紅と初めて会った時はそう思っただけ。男の言うように自分の身勝手な思いから繋がりを望んだ。
 ――そうだったけれど……。
 けれど、男の言う通りではない。
 ――違う。
 銀は、口を引き締める。
「ヒトの形をしてながら、ヒトの呪縛を受けぬその生き様は……同じヒトとは思えず、里の者は畏れていた」
 男から視線を外さずに、銀は言う。
「だが、お前達も――ヒトだ」
 紅は、淋しそうに空を見上げることがあった。胸を締めつけられた。すぐにその顔は隠されたけれど、自分と一緒にいる時にふと見せるその表情に、自分の腑甲斐無さに悔しくなった。
 どうしてそんな顔をするのか。どうして隠そうとするのか。最初は、一緒にいることに対しての不満かと思ったけれど、そうなら約束を守るわけがない。なら……何故、そんな表情(かお)をするのか。
 どうしてなのか。
 無理をしなくてもいいと、何度もいいそうになった。けれど、それを聞く勇気がなくて……、ただ、寄り添うことしか出来なかった。それが、悔やまれる。
 言うべきだった。
 どうしてそんな顔をするのか。
 もっと近づいて。そして、温かさを伝えるべきだった。
「失われた知識や技を持つ故に、必要以上に関わりを持とうとしないのだろうが」
 毅然とある男を見て、思う。山の者は護ろうとする故、とても不器用だと。
 触れ合うことを、怖れている。
「お前も、哀れな人間(ヒト)だ」
 銀は、男に言った。
「紅を想うお前の揺れようは、紛れもなく人間だ。我ら、里の者と同じ存在……」
「……っ」
 隠し続けた心を言い当てられて、男――ヒドリは憤りに震えた。銀の言葉を拒絶するかのように眉間に力をいれ、銀を睨みつける。けれど逆にその行いは、銀の言葉を認めたことを意味して、ヒドリは動揺する。

『父さま、この赤子……どうしたの?』
 赤く汚れた衣服に包まれた小さな命。父が連れてきた赤子を見て、首を傾げながら尋ねる。
『里の者でしょう。返してあげないと』
『いや、それは難しい』
 泣く力のない赤子の口元に山羊の乳を含ませた布を当てながら、父は断言した。
『この赤子は、里の者としてまだ存在していないだろう。受け入れてもらうのは、難しい』
『でも、母親が探すよ』
『母も父も、いない』
 微かに身じろいだ赤子に、父は憂いの目を向ける。
『殺されたのだ』
『え…』
『母親が、最期の力をこの子に与え、この世に送り出したのだ』
 赤子が、泣いた。よく聞こえないかすれた音に、消えかけている命を感じて……知らず、拳を作っていた。
『父さま』
 小さく弱々しい声を発する赤子を見て、想いを言葉にする。
『この赤子を、アカと呼ぼう』
『アカ、か。血を表すその音はこの子に忌むべきものを背負わせるぞ』
『だからです』
 握り締めた手に力を込めて、腹の底から声をだす。
『命を表す色彩を音にしたい』
 何かをつかもうと伸ばされた赤子の手を取ると、その小ささに驚いた。頼りない感触に自分の願いを言う。
『変えようのない過去に囚われず力強く生きてもらいたいから、アカと呼びたい』
『命の色彩の、アカ……なるほど』
 父が顎鬚を撫でて思案しているのを横目に、赤子に呼びかける。
『アカ』
 自分の指をしっかりと握る存在に誓う。
『私が、お前を守るぞ』

 生きることを――――力強く生きていくことを願いながら、信じなかった。
 アカが背負った過去に負けてしまうのを恐れて、隠そうとした。
 他人から見て忌まわしいコトでも、アカにとっては切り離すことの出来ない、自分の始まりなのに……それを疎み、消そうとした。
 それが、間違えだったのか……問いかけても、答えを得ることは出来ない。はっきりしているのは、アカを守れなかったということだけ。
 ヒドリは、目の前の男を……銀を、初めて意識して見た。
 ――アカを、信じて。
 過去に囚われず生きていくことを信じて、自分が傍にいてやればよかったのだ。そうすれば、アカは里へ行くことはなかった。
 己の心を定めれていれば、きっと、アカを笑わせることができたはずだ。
 ――心から、笑わせることが出来たはず……。
 自分の思いだけで判断せず、アカと向き合うことをすればよかったのだ。
 アカが諦めるのを待つのではなく、自分が動くべきだった。けれど、そうしなかったのは、自分こそ、アカの過去を厭うていたから……。
「……」
 目の前に立つ、里の者に言われた言葉が、耳にこびりついて消えない。
 ――哀れな人間。
 小刻みに震える手が動き、叡智を握り締める。胸を締め付け、息を奪う苦しみを振り払うように叡智の結晶を抜き放ち――――ヒドリは叡智を銀に打ちつけた。
 息を詰まらせ、銀は蹲った。ヒドリはその姿を見て、逃げるように山へと駆けた。
 自分の居るべきトコロはこんなところではない。
 刃を赤く染めた叡智を放り投げて、ヒドリは山へと帰っていった。
 大地を踏みしめる音が、遠ざかっていく。
「は…っ」
 押さえつけている手をどかし、周りを見ようとして……赤く染まった視界に、銀は息を乱す。
 侵食されてしまうのではないかと思うほどに、濃厚で剛猛な、赤。片方の視界だけに映るのに、それは全体を覆い尽くそうとする激しさで、自分の内に入ってくる。
 ――紅も、見ていたのだろうか。
 血に染められた世界に怯えていたのだろうか。
 怖かったのだろうか……。
 力が全身から抜けて、銀は仰向けに倒れた。べちゃり、頭部が水たまりにつかった。周囲には水の気配が漂っていて、所々に水溜りやぬかるみがある。目を閉じて、神経を研ぎ澄ますと細かな音を奏でる流れ……星の川の音が聞こえてくる。
「星の、川……」
 星の川を辿って、紅と会った。現実から逃げたいと願う自分の想いがカタチになったのだと、そう思った。一時の、夢だと……。
 星の川から光が生まれ始め、赤い視界の中でほのかに輝く。舞うように、遊ぶように揺れる光を見つめながら、銀は唇を動かした。
「紅…」
 会いたい。
「紅、紅――」
 名を呼ぶと、想いが募っていく。
「紅」
 負った傷の痛みよりも烈しい痛みが全身を突き刺していく。
「会いに、いくから――」
 だから、待っていてと呟いた銀の想いは青く光る星の川に照らされて夜に沈んでいった。

  ■ □ ■

 蟒は、部屋の扉を乱暴に開け、吊り下がる紗を払い除けた。
「世話を焼かせる」
 吹雪の中、探し歩いた。自分がそんな行為をしたという事実を認められず、そんなことをさせた元凶を、睥睨する。蒼白な顔で横たわる姿を目に映ると、舌打ちし、目を背ける。
「蟒様」
 世話を任せる老婆が、顔を上げず蟒に話しかける。しゃがれた老婆の口調は下を向いて話すと聞き取りにくく、蟒は不快感に眉を顰めた。
「なんだ」
 怒りを含んだ声に、老婆は少し肩に力を入れた。
「この者、身ごもっております」
 蟒は、ゆっくりと老婆へと体を向け、歳月の刻まれた顔を見た。
「何?」
「子を、宿しております」
「……」
「蟒様の御子です」
 すぅっと、蟒の目が細められた。













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