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「みっつ   穢れと憎しみと悲しみ 前編」の詳細記事: 彩

創作小説を掲載するブログです。 幻想世界を基本に書いていきます。

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みっつ   穢れと憎しみと悲しみ 前編


 吹き荒ぶ雪の激しさが洞穴に反響して外の厳寒を伝える。縦横無尽に飛び回る雪にけぶる外は、鉛のように重く濁った空間だった。
「天城は、怒っているな」
 光も闇も、天も地も曖昧な今……ふと思い出す。幼馴染はどうしているかと。
「怒っているだろうな」
 ひどい別れ方をしてしまった。
 天城とりん。幼い時を共に過ごした大切な二人との別れは、ひどいものだった。
 銀は、明暗の混じりあう世界へ、目を向けた。

『銀!』
 叫ぶように自分を呼び、駆けて来る影。
 初めて紅に会って、星の川の煌きに微笑む紅の横顔から目を離すことができなくて、日が完全に沈み夜が深まった頃に里へ戻った。案の定、里の者達は自分を探している。
ばつの悪さに首筋を撫でて、影が近づくのを待つ。
 幼馴染の顔が、安堵に緩むのが松明の光に照らされた。
『天城』
『お前、どこに行っていた……』
 天城は、息を吐き出しながら力を抜いていく。探し回っていたのだろう、額に浮ぶ汗が、火の光をはじいた。
『すまない』
『りんにもちゃんと謝っておけよ』
『……』
『どうした?』
『あ、いや。何でも……』
 ないとは、言い切れなかった。
 りんの名を聞いた途端に、現実が戻ってきたような錯覚に囚われた。自分の置かれた状況を否応なしに知る。そして――。
 耳に馴染んだ名を聞いたはずなのに脳裏に浮かんだのは別の姿で、自分だけしか見えていない影を目にした瞬間、心がざわめいた。
 急に息苦しさを感じて足を止める。
『銀?』
 振り向いた幼馴染の目に自分が映る。自分の目にも幼馴染の姿が映る。それはいつもあたりまえのようにしてきたことだけれど……、今は、自分をその目に映して欲しくないと切願した。
『何でも、ない』
 重い息を吐き出しながら答える銀を、天城は無言で見つめ「わかった」と短く答えた。

 ――天城は、りんが大事だったんだな。
 足元に舞い込んできた雪が、大地に滲みていくのを見つめる。
 ――天城は……。
 自身を繋ぎとめてくれる現実を守ろうとしていた。自分も……大事にされていた。
 ちらちら、体に纏わりつく雪に洞穴の奥へと座りなおす。土の匂いが暖かさと一緒に伝ってきて、安堵する。
 大地の気配は、耕された土や水音の絶えない川原や、命の息吹の濃い山を思い出させる。
 ――どうしているだろう。
 里を出て、もう随分経った。長となるべき自分が、里を捨てた……その事実に、皆が自分に失望し、見限っているだろう。
 銀は濁った空を見る。
 真っ白な雪を落とす空は明るくもなく、暗くもなく、天と地の境目をなくしてすべてを混沌とさせている。
 空を見てみたいと、思った。
 ココに来るまで――紅に会うまで、ただ生きるために生きてきた。這いつくばってでも生きることを強く強く望み、生きて紅に会うことを何度も願った。
「空があるということを……忘れていたな」

  ■ □ ■

 空を見ることが多くなった。
 流れる雲を追いながら、待ち続ける。砂の海の果てから空が染まっていくのを、待っている。
 空が赤く染まる時、思い出す。
 美しく輝く空の在りようを名に込めた少女に、会いたくなる。
「何故…だろうな」
 息を吐く。
 自分に欠けているモノを探していた。里の長の一人息子として在った自分になかったモノ。喪失感があった。漠然とだけれども、確かにある虚しさ。そして、それは一つの疑念を抱かせた。
 何故、自分は長になるのだろうと――――気づけば、考えていた。
 変わらない日々に安寧する里の者達。けれど、変わっていく風景を目にするたびに、里の在りように訝ってしまう。
 おもわしくない里の実りを補うために開かれていく山。ただ、己を満たすだけに削れていく山は、里の風景を少しずつけれども、確かに変えていく。
 銀は、腰を下ろした切り株を撫でた。
 甘い果実を実らせた木があったのだ。木登りに疲れ、太くしっかりとした枝に体を横たえながら齧る実は、いつ食べても極上の幸せを感じた。
「天城とりんとも、よく登ったな」
 里で育てていた果実が実らなかった時、名も知られぬこの木の実はすべて捥ぎ取られてしまった。大きく厚い葉肉にも甘みがあるとわかると、葉まで搾取され……春を迎える前に枯れて、切り倒されてしまった。
 心を癒してくれた甘い果実が、強い日差しを遮ってくれた緑の懐が、群がる里の者達に捥ぎ取られていくのを……成す術もなく見ていた。
――――里のためです。
 もっと優しくしてやってくれと訴えると、集った者達はいっせいに振り向き、不思議そうな顔をして、言った。
――――この木の実りは、里の者を救うのですよ。
 切り倒された木は、里に伝わる技によって農具や家具、そして薪となっていった。人の生活を潤す為に伝わる技。里に伝わってきた誉れ。どれも、素晴らしい。けれど命を繋ぐ技は、ただ費やすためだけのものなのかと、考えてしまう。
 自分達の望みを叶えるだけなのかと、懐疑的になる。
 貴き血脈。その頂点にある自分は里のことをよく知っている。知っているが、実感が伴わない。技を揮っているのは衣食を担っている者達で自分は彼らの技の結晶に支えられているのだ。それが、貴き血脈の証だという。そして、長は里の中心に位置する存在。なのに……自分は、里の在り様をよく思えない。長となるべき自分が、里を拒んでいる。
 抱く疑念は、月日が経つほど深まっていくのに、現実は急速に自分に迫ってきている。長としての自分。伴侶を得る自分。受け入れられない現実の中で生きていかなければならないのか。
 何か違うと、叫びだしたい思いを抱えて日々を惰性に過ごしていた時に……見つけた。あやふやで、おぼろげな現実の中でつかむ事のできた、心。
 紅と名づけた少女。
 少女と会った瞬間、翳んでいた世界が明るさを取り戻した。夢から覚めたようだった。いや……、夢を初めて摑めたようだった。そして、少女を見ることができた時、胸を打った高揚感は――なんだったのだろう。
 抱いた想いが、少女を引き止めた。
 里の長となる自分から目を背けるため、逃げていたのかもしれない。鬱積する現実と別の現実を願った身勝手な行動なのかもしれない。
 考えても、考えても、答えは出てこない。
 ――けれど…、
 銀は、唇を引き締めた。
 会いたいと、切に願う自分がいた。
 紅と一緒にいる時、世界は広く、明るかった。
 里に生きることを疎む自分が里を守り導かなければならない、その相容れない自分の苦しみは紅の目に自分が映ったのを見た瞬間、消えてゆく。紅と言葉を交わすと、枷でしかないと想う里に望みを持て、新たな道筋が作れると、背筋を伸ばすことができた。
 紅は、話すのが得意ではない。たどたどしく言葉を綴る。互いの存在に慣れた今でも、途中で言葉を呑み込んでしまう。紅が何を言ったのか、正直よくわからないことが幾度もある。
 紅の言葉を、曲げているかもしれない。けれど、受け止めているかもしれない。
 ――紅に、会いたい。
 わからないことばかり。けれど、紅に会う前とは違う自分を確かに感じた。蟠っていく思いに息苦しさを感じることはなくなった。
 どうしようもなく、紅を求めている自分がいる。自分の立場を思い返して、押し留めようとしてもできない。渇望してしまうのだ。もっと、もっともっと一緒にいたいと……痛みが、生まれる。
「銀」
 自分を呼ぶ声に、意識が現実に戻った。振り返ると、りんが立っていて、息が乱れていくのがわかった。
 居住地区から離れたここには川原に続く道しかない。その道を辿ろうとする姿を見られたことに、ひどく戸惑い銀は体を揺らした。
 川原に着けば、星の川を辿れる。上流に向かって歩いていけば……会うことが出来るのだ。星の川の流れが急速さを増した頃に見える岩屋を目印に、紅と会う。
「銀」
 りんに、呼ばれる。
 自分の名なのに、呼ばれると不思議な感覚がした。りんが、よく見えない。自分が捉えることができていたのは、道を踏みしめる足裏の感覚と星の川の流れだ。
「どこかに、行くの?」
 りんはくぐもった声を出した。
「銀…」
 りんは銀を見ようと顔を上げるがすぐに俯むき、肩を震わせた。か細い呼吸を何度も繰り返した後、りんは怖々とした足取りで銀に近づく。
「どこ行くの?」
「りん」
「どこに、行くの……銀」
 りんは、銀の袖を摑んだ。
「銀、おかしい」
 震える声を呑み込んで、りんは銀に言う。
「おかしいよ」
 りんは銀を覗き込む。
「私達、契りを結ぶんだよ。 なのに、どうしてそんなにふわふわしているの……?」
 銀の視線をりんも追う。草原に点々と咲いている花が風に揺れているのが見えたが、銀がその光景を見ているのではないことは、りんにはわかった。
「どこを、見ているの――」
 りんの体は小刻みに震え、ちゃんとした言葉にならなかった。耳障りな音にしかならない自分の声に、ますます体が震え、りんは銀の袖を握り締めた。
「…りん」
 摑まれるところから伝わってくる、りんの震え。
 銀は、俯くりんを見た。押し殺すことができずに漏れる声は苦しげで、銀はきつく目を閉じた。
 人は、どうしてこんなにも心寄せる相手があるのだろうか。
 少し前まで、自分にはわからなかった。焦がれる想いなど、知らなかった。
 その想いの行く先は想像することなど出来ない。生まれた時から課せられた役割があり、それを忠実に務めればいいのだと、想い(ココロ)を否定していたから…………。
 いつも自分の傍にいた幼馴染。どうして、彼女を想う事ができないのだろう。
「りん、すまない」
 銀はりんの手を摑み、袖から離すと、川原へと歩き出した。
 りんの息を呑む音が、聞こえる。それは小さくてすぐに消えてしまうものなのに、銀の中で大きく響いた。
 けれど、銀は振り返ることは出来なかった。かすれた声で自分を呼ぶりんの声より、星の川のせせらぎを少しでも近くで聞いていたくて、足を進めていった。
 葦をかけ分けて星の川の音を辿る。この辺りには、まだこんなにも葦が繁っている。屋根の構成や家畜の暖をとるための囲いに、葦は欠かすことのできないものだ。いつも決まった場所で葦をとり続けているせいか、年々丈が短くなり、芽吹く数も少なくなっている。里と山との境目に近いと、里の者は近づかないがここには力強い息吹を持つ葦がこんなに生えている。
 大丈夫だと、銀は思った。探せば、別のところにも葦は生えているだろう。慣れた場所に拘って一つの命を絶やしてしまうことを避けれそうだ。
 左右に葦を掻き分けると、星の川が見えた。
 水に洗われた石が葦の根元に所々落ちている。星の川が溢れた時、川原から運ばれたものだろう。もう少しで、川原にでる。そうすれば、後は星の川を辿っていけばいい。
 ――もうすぐ、
 紅に会えると思ったら、鼓動が高まった。早く会いたいと沸き上がってくる想いに急かされて、足が動いたが……踏み出すことができなかった。
 せわしなく動く葦に、銀は表情を曇らせた。
 りんが、追ってきたのだろう。
 重たい息を銀は吐き出した。そして、りんに言われた言葉が、今更ながらに圧し掛かってくる。
「りんは…」
 自分の下へ来ることを……周囲に決められた約束事を、喜んでいた。
 零れそうになる涙を必死にこらえて自分を見てきたりん。いつ、りんとの関わりが変わったのだろう。いつから自分を見る、りんの眼差しが変わったのだろうか。
 ――けれど、俺は。
 銀は息を吸い、こちらに近づいてくる影を見据えた。
 ざらついた音を発して葦が揺れ動く。鼻を擽る香には水の気配が濃厚で、今すぐにでも星の川を辿って紅に会いにいきたいと思う。
 がさりと乱雑な音を発する葦の隙間から、水の流れが聞こえてくる。
 ――紅。
 待たせてしまうなと、銀は小さく息を吐いた。
「銀」
 耳に馴染んだ声で呼ばれる――が、葦の壁をすり抜けてきたのは、りんではなかった。
「……天城」
 予想しなかった相手に、銀は目を剥く。
「こんなトコロで何をしているんだい、銀」
「あ、いや」
 動揺する心を落ち着かせようと、銀は力の抜けた手を軽く握りしめた。
「どこか、行くのか?」
「…っ」
 ココにいる理由など、そうそう有りはしない。それを、敢えて訊ねたのに、銀は体を強張らせる。
 天城と、目が合う。
 天城は…いつもと変わらない目で、不思議そうに自分を見ていた。
 乱れた息が少し落ち着き、銀は「用が、ある」と天城に背を向けた。紅に会いたいと急かす気持ちと、早くこの場を離れたいと焦る気持ちに動く体。けれど、天城の声が銀を束縛する。
「血を交わす相手を拒むほどの?」
「…!」
 いつもと変わらない表情で見つめられて、銀はうまく力の入らない口元を掌で隠した。何か、云わなくてはと思うのに、何も言えない。動揺する心を何とか落ち着かせようと、深く息を吸うと……天城が、高らかに笑った。
「天城?」
 あまりの突飛さに、銀は呆然とする。その銀の様相を見て、天城はさらに笑う。
「君は……」
 天城はおかしそうに喉を鳴らし、笑いに捩れていく体を宥めるように息を吸い込んだ。そして、銀を覗き込むように見上げる。凍てついた目だった。
 いつもとは違うその様相に、銀は眉を顰める。
「天――」
「君は、どこまで人を馬鹿にすれば気が済むんだ」
 天城は目を細め、ゆっくり言葉を綴った。
「山の者に、会いに行くんだろう」
「…っ」
「偶然、見た」
 非難めいた銀の眼差しを、軽く笑って天城は受け流した。
「そんなに驚くことでもないよ。山に行く物好きは君だけじゃない。それだけのこと」
 くつくつと、天城の喉が震えた。
「銀」
 口元を覆い、銀を見上げる。
「そいつのことを本当に知っているのか?」
「え…」
 天城の問いに、すぐには答えられなかった。
 知っているのかと、言われても…………どう答えればいいか、わからない。ただ、困ったようにしか笑わなかった紅が、やわらかく微笑むようになった。その時の喜びが滲み出てきて、胸を打った。
 小さく笑う銀を一瞥して、天城はそびえる山に侮蔑の眼差しを向けて、言う。
「山に住まう者達は、妖しい力を持つ」
「いや、違う」
 すぐさま、銀は否定した。それは自分も思っていたことだけれど、紅にあって言葉を交わして、不安を綯い交ぜにして憶測した故に生じた誤解だと知った。
「妖しくはない。俺達とは何も変わら…」
「全然違う」
 天城は銀の言葉を遮った。
「人の住める場所ではないところで生き、妙なモノを作り出す。知っているだろう、長となるお前なら……銀」
 天城は、せせら笑う。
「里のはじまりを築こうと、皆が力を合わせて生きていた時、それをよく思わなかった山の者達が大蛇(おろち)をけしかけ、里を呑みこんだ――――貴き血脈の者が今も語り継ぐ、混沌からの里のはじまり」
「それは……」
「知らぬわけ、ないだろう? それが山の者正体だ。妖し、そのもの」
 断言する天城に、銀は眉根を寄せた。不快からではなく、頑なに自分を主張し、相手の言葉を拒むのは天城らしくなくて、怪訝に思ったからだが……銀の表情を見た天城は、自虐的な笑いを浮かべて、俯いた。
「天城?」
 何か、おかしい。
 銀は天城を呼んだ。
「天城」
 天城は、銀を見ているようで見ていない。眦を吊り上げ、険しい表情でどこかを睨んでいる。
 影の密度が増してきた。砂の海に、光が呑みこまれているのだろう。大地に縫い止められている影が、光が弱まる時を見計らって実体を侵略してやろうとしているようで、この曖昧な時間は好きではなかった。残光で天は輝いているのに、すべて影に覆われる。誰だかわからない。
 天城の顔は、広がっていく影に包まれてよく見えない。俯き加減だからよけいに影がこびりつき、顔だけ抜け落ちてしまっているように見える。なのに、目だけが異様に光っていて……疑ってしまう。これは、誰だと。
 ざわめく心に言い聞かせるように、銀は天城の名を呼んだ。けれど、天城は少し体を揺らしただけだった。
「天…」
「うるさい」
 唸るように言葉を発して、天城は銀を見た。そして、言う。
「銀は、慣れぬ女の扱いを面白がっているだけだ」
 お遊びはもう止めろと、天城は大きく息を吐いた。
「お前は、りんを幸せにしなければいけない」
 絶対にと、天城は銀をねめつけた。
 天城の眼光に射竦められ、銀は一瞬息を詰まらせる。
 初めて見る目だった。切り刻まれると思うような、鋭い眼差しだった。苦しげに天城の名を言っても、天城は銀の声を聞こうとはしなかった。つぃっと、目を細めて、銀を見る。
 瞳に、焔が宿っている……そう、思えた。
「りんを……、りんと血の交わりを成せ、銀」
 天城は、声を絞り出しす。
「でないと、俺はお前を許せなくなる」
 銀は目を見開いた。
 荒々しく乱暴な口調。
 抑えのきかない感情に、天城も一瞬戸惑いを見せたが、瞼を閉じ、一つ息をすると再び口を開いた。
「お前がりんと一緒になれば、俺は……俺は、生きてきた意味を初めて得ることができる」
「天城…」
 変化していく自分に、天城は息を詰まらせたが――もう、止めようがなかった。
 制御できなくなった感情に任せ、口を開いていく。。
「忘れようとした」
 溢れ出す激情に引きずられて、記憶が甦ってくる。ずっと……、ずっとずっと奥底に圧しこめていた光景が、一気に溢れ出してくる。
「必死に、忘れようとした」
 暴走する記憶に、声が震えた。
「あの日の、ことを」
 覆いかぶさる影に侵食されたかのように、暗く重い声を天城は発する。
「父と母が、奪われた日のことを」
「……」
 天城の両親は、忽然と姿を消してしまったのだ。当時は神隠しだの、山に呑みこまれたなど憶測が飛び交い一時騒然となったが、外のことに興味を持ち、他の里との交流があった普段の在り様から旅にでたのだということで落ち着いた。
 里を離れた上、子供を置いていった両親に里の者達はあまりいい顔をせず、今でも時々悪し様に言う者がいる。天城に聞かせるように言うこともあり、その様は見ていて気持ちのいいものではなかった。
 銀が押し黙ったのを見て、天城は肩を震わせた。
 自分の言葉の意味を、周囲から聞いた言葉で探ろうとするその様相に、おかしさがこみ上げてきて、思わず喉を震わせて笑ってしまう。
「天城?」
 笑いに息を詰まらせながら、天城は言う。
「忘れ、ようと……したんだ」
 肩を上下させて大きく息をして、もう一度「忘れようとした」と天城は言う。
 ゆっくりと、天城は顔を上げる。徐々に影が退いていく顔に笑みはなく、思い描いていた冷たさもなく、何の感情も浮ばないのっぺりとした表情だった。
「天、城…?」
 銀は思わず体を退いた。
 しゃららん、と星の川の流れが聞こえてくる。
 互いに口を噤み、言葉に邪魔をされなくなった為、二人を囲むように音が流れ込んでくる。
 ざわざわとしなる葦。消えゆく光を惜しんで鳴く鳥の声。熱を帯びた風の音。そして……星の川の流れ。
 心地よい音が、聞こえる。鼓動を落ち着かせてくれる。
 ――紅。
 星の川を上流へと進めば紅に会える。
 その音が、胸を締め付ける。
 紅に会いにいけない自分を感じて、体が冷たくなっていく。感覚が、遠くなっていくのは、今の状況を拒みたいからだろうか。
 天城の虚ろな目を光がすべっていく。その目で、銀を見ると天城は口を開いた。
「お前の父親に、奪われたことを……忘れようとした」
「…!」
 星の川の流れが……、耳を擽っていた音が、消えていった。低く奏でられる天城の声だけが、耳から滑り込み体を揺さぶっていく。
「お前とりんの傍にいる時、俺は――」
 天城は唇を噛み締め、苦しげに呟いた。
「楽しかった」
 唸るように搾り出される天城の言葉。
「三人でいる時間は、自分が生きているのだと実感できて……嬉しかった」
 だが――と、天城は搾り出すように声を発した。
「新しい命ごと、母を切り捨てるよう命じたアイツの顔は……忘れられない」
 天城は、銀を……その容貌から滲み出る人物の影を睨んで、言う。
「忘れられなかった」
 胸の内に渦巻くモノ。底沼に滞る泥のようだと、天城は息を吐く。長い間、目を背けていた、自分の中の汚いモノ。忘れようとした……けれど、出来なかった。
「お前と一緒にいると、会うことになるとわかっていた」
 天城の目は澱んで、視線が絡まると、どろりとした得体の知れないモノが流れ込んでくる。
「わかっていた。なのに、俺はお前とりんに縋って、今の今まで生きた」
 ふ、と力を抜いた天城の口端が緩み――笑ったように見えた。
「銀に、優しくされるたびに……お前の容貌からアイツが浮かび上がってきて、どうしようもできない感情に、苛まれた」
 唇を噛み締め、天城は奇妙な音を発した。歪んだ歓喜に染まっている言葉。それを耳にして、銀は「まさか…」と呟く。天城の目が笑うように細められて、自分の考えを肯定した。背筋が凍る。
 父の顔が、よぎった。
「天城、お前」
 擦れて耳障りな声がでる。
「天城」
 震える声がもどかしい。喉を押さえ、銀は天城を見た。
 杞憂だと、笑い飛ばしたかった。床につくことが多くなった父の顔色は、どす黒く、生きているという実感が持てなかったのだ。これといった病状はないのに、生命力だけが削がれていく父の様相に、尋常でないものを感じた。
「天――」
「結構、賢いじゃないか」
 天城の言葉に、悦びを聞いた。
 杞憂だと、笑いたかった。疑念が生み出した妄想を、笑い飛ばしたかったのに…………。
 天城は、喉の奥で笑いを転がしていた。
「山にはな、毒を持つ草がある。知っているだろう、銀」
「何、だって…?」
「なんだ、あの山の者に聞かなかったのか? 山の者は、使えるのに」
「天城!」
 銀の剣幕に天城は鼻白む。むくれた幼子のように、口を曲げ吐き捨てる。
「アイツさえ、里の長……お前の父親さえいなければ、うまくいくんだ」
 銀からわざと目を逸らす。
「お前の父親は、ひどく俺に親切だった。後ろめたさからか、仕出かしたコトに怖れたからのか……親切だった。 幼かったから――俺が、幼くて何も解らないとでも思っていたのか」
 天城は肩を震わせた。
「俺を警戒する素振りなんて微塵もなかった」
 天城、と。銀は名を呼んで天城の言葉を止めた。向けられる視線を受け止めて、銀は問う。
「父上が、憎かったのか?」
 唇が震え、言葉が乱れそうになった。一つ、息を吐いて……銀はまっすぐに天城を見て、言った。
「ずっと、ずっと……殺したかったのか?」
 天城は微動だにせず、銀の口の動きを見ている。
「お前の親を――」
「別に、それはいい」
「天城……」
「父が、出過ぎた真似をしたんだろう」
 銀から目を外すと、目を窄めて変化した空を見る。
「長になる腹づもりならともかく、自分の立ち位置を把握しなかった。だから、起こるべきして起こったのだ」
 ふん、と鼻を鳴らし、天城は口角を吊り上げた。
「愚かだっただけ、それだけだ」
「天城!」
 銀は、叫んだ。天城にこれ以上語って欲しくなくて、幼馴染の名を呼ぶ。悲痛な音となって、赤く染まり始めた空に響いていく名。
「天城、もう喋るな」
 壊れていく幼馴染を、止めたかった。
「自分の父を、貶めることを――」
「銀」
 天城は鋭い声を発して、銀を睨んだ。
「お前のそういうところが、憎い」
 ゆっくりと、感情(ココロ)を明確に宿す言葉を口にする。
「憎い」
「天、城……」
「お前は、どうしてそう……甘ったるい考えをする?」
 天城は、目を細めた。
「何故、自分の手にあるものを握りしめない」
 吐き出される言葉は、どこか羨望を滲ませていた。
「何故、用意されている、最善のものを選ばない」
 にじり寄って来る天城に、銀は一歩、退く。ざりざり、引き摺るように足を動かす天城と対峙していられなくなって、銀は……天城に背を向けた。
 向ったのは里ではなく、星の川。上流にある岩屋を目指した。
「銀ぇーー」
 銀の向かう先を知り、天城は絶叫した。意味のない言葉を、激情を吐き出すように叫び続け、そして天城は仰向けに倒れた。
 山に吸い込まれていった自分の声が木霊しているのを聞き、体中を駆け巡っていた熱が退いていくのを感じる。
 吐き出した数々の言葉が、今になって内に響く。
 何故、言ってしまったのだろう。
 後悔が……、自分を罵る言葉となって押し寄せてくる。赤い空を見上げながら天城は零れ落ちる冷たい雫をそのままに、目を閉じた。
 伸びた影が体を覆い、濡れた頬が冷える。冷たさに感覚が冴え、消えゆく光や葦を揺らす風、星の川の流れがよくわかった。
 微かな変化でも、感じ取ることが出来る。自分が無くなって、溶けてしまったようだった。そうだといい、と天城は体を投げ出した。
 壊れてしまった。
 銀とりんと一緒にいることは……もう、叶わない。
 ――二度と、叶わない。
 自分を支え、生かしてくれた繋がりが、絶ちきられた。
 真紅に輝く空を、茫然と眺めていると、葦を踏みつける音が聞こえた。
「銀?」
 山へと……山の者へと会いにいった銀が戻ってきたのかと、天城は体を起こした。
 葦をかき分ける音は小さく、小柄な影が戸惑いながら進んでいるのが見えた。銀ではない。りんが、来たのだろうか。
 銀と心を交わすことができないと知った彼女は打ちのめされていたけれど、銀を追ってきたのだろうか。
 影が、自分の前に繁る葦を掻き分けた。
「お前――」
 光があるのに、誰なのかわかり難い今の刻。けれど、今目の前にいる者はすぐに判った。目の前に現れた少女は、里も者ではありえない服装と髪型をしている。死人しか纏わない真っ白な衣服。裾は短く、男しか着用しない股裂けを平然と身に纏っている。不揃いな長い髪は結われてなく、風に弄ばれ、みっともないぐらい広がっている。
 今、目の前にいる者が壊したのだ。
 ――りんの幸せを。
 この、山の者が奪ったのだ。
 ――銀の心を。
 そして、狂わせたのだ。
 自分を、戻れなくさせた。
「お前だな」
 天城は呪うように声を出すと、体を起こした。





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