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「 翁媼 - 一」の詳細記事: 彩

創作小説を掲載するブログです。 幻想世界を基本に書いていきます。

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翁媼 - 一



 何も知らないトコロへと踏み出すのが、怖くないわけでない。
 でも、往く。
 振り返らずに、先へ先へと…………ひたすらに進んでゆく。
 怖くないわけではない。
 けれど、戻ることは出来ない。
 帰るトコロなんてない。
 ――いい、
 睨むように前を見据え、足を踏み出す。どこに向かうのかわからない。はっきりしているのは戻ることはできないのだということ。けれど、いい。
 ――帰るトコロがなくても、いい。
 ただ、奪われた片割れを取り戻せれば、それでいい。その想いだけが、自分を突き動かす。
 踏み固められていない土塊に足を囚われ、朽ちた枝と葉の中に転がった。
 ねっとりとした匂いが鼻を突く。自分の中に這入ってくる重たい空気。
 眩暈がした。
 何度かわからない転倒に、起き上がる気力が湧かず、そのまま手足を投げ出して仰向けになった。
 ――空が、遠いな。
 濃厚な緑に覆われて空が見えない。木々がざわめき、微かな隙間が光を零す時にだけ空はちゃんとあるのだと知る。けれど、すぐ闇に呑まれる。ざわざわ、ざわざわ、緑の息吹が溢れているのに……自分にとってはその命の鼓動が、恐ろしい。
 自分も、呑まれるだろうか、と。悲観的な考えをする自分を叱咤したくても怒る気力がない。
 体が、思うように動かせない。
 まだ食べる物はある。けれど、水がない。
 息が、長く出ていった。
 ――水、水、水……水。
 水をこんなに必要とするなんて思わなかった。今まであたり前のようにあったから。
 渇望する心に、いつも眺めていた水面の煌きが、ふと、脳裏を横切った。
 きしり、胸が痛む。
「違う」
 堅く目を瞑り、何度も何度も、自分に言い聞かせる。気を緩めた途端、目の前に広がる光景。それは懐かしさと淋しさから思い出すのではないと、唇を噛み締めた。
「違う、んだ―――」
 心に決めたコト。
 密かに、けれど強く在る決意。そのことを確かめるようにコウはもう一度呟いた。
「行くんだ。そう、決めたんだ」
 形を崩した葉の欠片を体中に纏って立ち上がる。
 太陽が天上を支配している刻の筈なのに、暗く、冷たいトコロ。水など何処にも見当たらないのに、じとりとした気配が絶えず漂い、水の中でもがいている錯覚に襲われる。
 ――息苦しい。
 喉に爪をたてた。
 重ね着に汗と湿気が滲みこんで肌にまとわりつく。それはとても不快で、苛立った。
 今すぐ、破ってでも肌にはりつく布地を取り除きたい衝動にかられる。でも、出来ない。外気にふれれば肌は歓喜し、蓄積した鬱憤が拭い去られるだろうが、肌を曝したまま歩けば、たちどころに赤い模様が描かれてしまう。
 どれだけ気をつけても、自分を簡単に覆い隠す緑に傷つけられる。腰に下げた刀を使って阻む草木を薙ぎ払っても、自分達の領域に這入り込んだ不埒者を排除しようと、静かに攻撃を続ける。気休めにもならず却って疲れるだけだった。顔や腕についた擦り傷や切り傷が、痛んだ。
 ――喉が、焼ける。
 痛む喉を押さえて、息を呑みこんだ。手の平に伝わる振動は不安定で荒々しい。
 ――水……。水、飲みたい。
 ふと、光が目をかすめた。
 頭上を覆う葉から零れた光を、強くはじき返すモノを見つけ、喉が、鳴った。
 積み重なる枯葉がゆらりと影を蠢かせているソレを、目を凝らして見る。
 水のゆらめきがあった。
「み、ず……」
 求めていたモノだと、身体が動いた。獣のように進み、指先が水の感触を得た瞬間、嬉しさに涙が滲んだ。大きく息を吸うと、濃厚な水の香が体中に沁みていく。
「水!」
 手ですくうなんてもどかしく、口で直接啜ろうとした。
「いけませんよ」
 どこからか、声が聞こえた。でもそれは生い茂る木々が生み出す音だ。空を独占して光を浴びる無数の葉と枝が風に吹かれて音を生み出す。そして、どこかにひそんでいる生き物の気配。それらは、しばらく耳にしていない人間の言葉に聞こえてきた。
 誰かに縋りたくなる自分の弱い心が、鳴り止まないその音を都合のいいように聞いているのだ。
 ざわり、ざわり、降り注いでくる音。
「その水は毒です」
 また、聞こえてくる。
 ――うるさい。
 這入りこんで来る言葉を追い出して、身を屈めると水の気配が頬を包んだ。
 ――水、だ…!
 空気と一緒に吸い込もうと、腹に力を入れるが――――。
「いけません」
「……」
 強く発せられた言葉に、息が止まった。
 光を揺らめかせる水面から目を離して、周囲を見る。そして、自分を見つめる存在に気づいた。
 じぃっと、目を凝らす。ちらちら、落ちてくる光に縁取られる影は、人の形をしている。
「あ…」
 見開いた目に映る影は深い緑の覆いをはらいのけて自分へと近づいてきた。がさがさ、大地に被さる枯れ葉や枝が鳴る。
「……」
 近づいてくる影に、無意識に手が腰紐に固定してあるモノへと伸びた。表面を一撫でして存在を確め、抜き取ろうと手に力を入れたが――――握り込んだモノが伝えてくる感触に、肌が粟立った。
「…っ」
 コレは、違う。
 戸惑った瞬間、滑り込んできた思いに指先が強張った。コレは、薪を作るために使っていた短くて厚ぼったかった刃とは違う。今、握り締めるモノは……とても硬くて、ひどく冷たい。自分のぬくもりを奪っていくのに、冷たいまま。
 ――コレは、違う。
 今、掌に握りこむものは魚を捌いたり、固い殻に包まれた木の実を取り出すために使っていたモノとも違う。生活を助けてくれる刃とは、違う。
 ――コレは…。
 混乱する頭の中に、落ち着いた声音が響いてきた。
「その水は、腐った葉に毒されています」
 かさり、大地を踏みしめる音が近くでした。
「いや、だ……飲みたいんだ」
 我慢できなかった。自分は少しおかしいと、そう思うのに、どうにもできない。
「では……」
 影が、動いた。
 かさかさ、音が耳をくすぐったかと思うと、土の匂いがした。
「これを口に含みなさい」
 目の前にだされたのは、根に泥をつけた茎の太い草だった。
「この茎を噛んでみなさい」
「……」
 差し出された草は深い緑を宿していて、光の届かないこの空間の中に溶けそうだったが、声の示した茎だけがしっかりと輪郭を残していた。真っ白な太い茎は幽かに光っていて、瑞々しかった。
 無意識に伸びた手が、草に触れる。瑞々しさが、指先に伝わるともう何も考えれなくなり、言われるがまま茎に歯を立てた。
「――あまい」
 ふふふ、と影が笑った。
「……」
 軽やかな笑いを作る影を見ようとしたが、それよりも、貪欲な望みが口から零れる。
「足りない、水が…飲みたい」
 すぐ傍で揺れる水に再び意識が向きけるが「行きましょう」と促され、目をまたたく。
「え?」
「少し、我慢できるようになったでしょう?」
 何を言っているのかわからなくて、影を睨みつけたが、傍で自分に囁きかけていた影はすでになかった。
「こちらですよ」
 さくさくと、大地を鳴らして歩いてゆく影が、振り向いて言う。
「……」
 耳に届く声。空を覆い隠す陰影が作り出すざわめきとは、違う。ちゃんとした、言葉。音を生みだしていく、足。
 大地を踏みしめていく足の動きにつられて、足が動いた。
 さくさくさく、土を踏みしめる音が響く。
 どれぐらい、歩いたのだろう。足音も耳に馴染んで、また周囲に立ち込める闇を意識するようになった。
 ――どこへ、向かってるんだ……?
 自分は、一体何をしているのかと、ふつりと、疑念が沸き起こる。その瞬間、肌が粟立った。
 ――何を、しているんだ?
 自分が、何のためにココにいるのかわからなくなって、上を見上げた。
 鬱蒼と繁る、数え切れない葉。たくさんの緑が重なって重なって……光を遮る厚い帳を作っている。零れ落ちてくる光はほんのわずかで、うすら寒い闇が自分を包んでいる。
 ひたり、音が聞こえた。
 ゆっくり、首を動かす。
 ひたひた、と前を歩く影が湿った土を叩いていた。
 ――喉が、渇いた。
 何日も歩き続けた。光の存在が薄れ、闇の気配が濃厚なココを、何日も何日も歩き続けた。行きたいところがあるのに。行かなければいけないのに……ちゃんと進んでいるのかわからなかった。ただ、立ち止まるのが怖くて、先へと進まない自分が許せなくて、歩き続けた。
 必要なものを持って旅立ったつもりだったのに、水が底をつくのは早かった。いつも、あたり前のようにそばにあったから、考えもしなかった。水がなくなることを……。
 大きく頭をふって滲み出てくる光景を振り払う。
 ――違う!
 付き纏う、光景。光が舞い踊る水面が見えた。望まないものを見てしまって、さらに気持ちがささくれ立つ。
 唾液を飲み込んでも、喉は潤わない。寧ろ、もっと水を寄越せと引き攣れ、痛みだす。
 ――オレは、何を……。
 疑念の渦に呑みこまれようとした時、気づく。勢いよく顔を上げて、前を歩く影の、その足元へと目を凝らした。ひたりひたり、影が湿った音をだしていく。そして、ぴしゃんと、波紋を描く。
 ――水!
 いくつもの波紋を作り出していく水溜りは、先程の黒々として、ねっとりとしていたものとは違う。
 辺りに漂う水の香を嗅ぎ取り、意識が冴えた。吸い込む空気は、すぅーと体に沁みていく。
 ――水が、ある。
 涼やかな音が耳にすべりこんできた。水の奏でる音だった。
 ――水!
 ぴしゃんと、足が水をはねあげた。飛び散る水をつかもうと屈むと「ここですよ」と影が振り向いた。
「え?」
 示された場所に目をむけると、水が湧き出ていた。
「水……」
 大地から溢れ出る水は、とても澄んでいた。澄みすぎていて、漂う薄闇に染まり、大地に溶け込むように流れていた。
 掌をひたし……我慢できなくなって、湧きでてくる水源に顔を突っ込み、思う存分に水を飲んだ。
 熱が、鎮まっていく。息を吐くと、そのまま横になりたくなった。けれど、耳に届いた声が緩んでいく神経を再び張り詰めさせる。
「落ち着きましたか?」
「……!」
 声をかけられて、肩が揺れた。勢いよく顔を上げて、影を見る。
 ココまで自分を導いてきたモノが一体何なのかを確めようと、眼光を鋭くする。
「あら」
 険呑な空気を作り出す自分に、目を丸くした影は――――老女だった。
「え…?」
 おっとりと首を傾げる影は、想像していた姿形とはかけ離れていた。影のカタチがはっきり瞳に映ると、一気に力が抜け落ちていく。脱力感に抗えず、その場に座りこむと衣服ごしに伝わってくる水の存在。肌に触れるその感触を、……懐かしいと思ってしまった。
 熱が奪われていくからすぐに立つべきだと、頭で思うけれど、身体が動かない。立ち止まっているわけにはいかない。このまま根を張ってしまいそうな足を動かしたけれど、思ったように力が入らず、倒れてしまった。
「あらあら」
 間延びした声が、耳を撫でる。
 顔を含めて前全体が泥に埋まるように倒れた自分の間抜けさに頬が熱くなっていく。すぐさまこの場を去りたかったけれど、膝に力を入れても腕が滑り、腕に力を入れると今度は膝が滑り、さらに泥塗れになった。
「……」
 全身についた泥の冷たさを感じると、なんだかどうでもよくなって仰向けになった。
 繁りの隙間をかいくぐって落ちてくる光の粒を見ていると、突然影が落ちてきた。
「家に、おいでなさい」
 老女が、自分を覗き込んでそう言う。影が顔にかかっていて表情は見えない。脈絡もなく言われたことに驚くより、老女の顔がよく見えないことに息を呑んだ。
「怖いですか?」
 自分の考えを読んだかのように言うと、そして、老女は自分の腕をとって起こそうとした。ふいに触れられ、声をあげそうになったが、老女から伝わってくる温もりに強張りが溶けていくのを感じた。あれだけ力の入らなかった体が簡単に立ち上がる。
 どうして、老女から逃げたいと思ったのか、わからないけれど、ひどく失礼なことをしたような気がして顔を俯けていると「歩けますね」と穏やかな声が聞こえた。
 驚いて顔をあげると、自分の慌てぶりに老女がぱちりと、目を瞬かせ「行きましょう」と歩き出した。
「……」
 素直についていくことができず、老女の背中を見つめていると、ふふふと息を震わせた後、老女が振り向いて自分と目を合わせた。そして「食べないから、いらっしゃいな」と、言った。
 それでも踏み止まっていると、肩を揺らして老女は笑う。
「頑固、ですねぇ」
 ころころと、笑い声が薄暗い空間に広がっていく。
「あ…」
 周囲に反響して聞こえるその音は、木々のざわめきや闇にまぎれているモノの息遣いとは違って、とても明るい。自分の吐き出す息にすら、鋭敏に蠢いていた空間の、初めての変化に唖然と周囲を見渡していると、老女の穏やかな笑みが目にはいった。
 ――ちゃんと、居るんだ。
 言葉が、聞こえる。心を伝える音が、響いている。ココに……リンに這入ってから聞くことができない音が胸を打つ。
 自分以外の存在が、今、目の前に居ることに身体が震えた。
「行きましょう」
 聞こえる声。自分が、誰かと話しているということを実感する。
「……」
 一歩、足を踏み出す。
 踏みしめたところから水が滲み出て、足を離すと小さな水溜りができていた。
 幽かな光を弾く水を凝視して、思った。
 切望していたのは、水ではなかったかもしれないと思ったけれど、頭を振って、浮んだ思いを振り落とす。
 ――そんなこと、ない。
 そんなことないと、口の中で呟き、老女の背を見た。年を感じさせない足運び。ついていけなくなるのではと、その背を追う。
 徐々に木々の帳が薄くなり、木々に遮られていた光が、溢れた。
「うわ…!」
 何度もまたたきながら、ゆっくり光の溢れる場所を見て、知る。さらりと流れる軽やかで、やわらかな空気。ココは、人間が住むことを許されたトコロだと。
 整えられた土の一画には、若々しい彩りがいくつもあった。老女が育てたものだろうか。見たことのない実をつけて若木がある。
 ――粉の実は、もう枯れたかな。
 家の前の土を耕して育てた大切な食物を思い出して、小さく息を吐いた。
「我が家です」
 からん、と木戸の擦れ合う音が響き、「どうぞ」と促された。
 わずかに逡巡したけれど、ここまで来て迷うことなどないと戸の軌条を跨ごうとした時、「あ」と声が聞こえて、思わず踏みとどまった。
 自分を誘(いざな)った老女が、自分を見つめた。
 瞬きすら惜しんで注がれる視線にたじろぐ。ココに来るまで何度も言葉を交わしていたれど、ちゃんと目を合わせたのは初めてだ。だから、ひどく居心地が悪くなる。向き合う相手の瞳に自分の姿が映っている。ついさっき出会ったばかりなのに、誘われるままついて来て、こうして向き合っている。それが、不思議で……戸惑う。
「そういえば、貴方は」
「フサ」
 開いた戸口から、老女より年嵩の男が出てきた。
「旦那様」
 フサと呼ばれた老女が、男をそう呼ぶ。日の光に浮かび上がった姿は厳つい顔立ちの老人で、特に目が印象的だった。
 ――連れ人、なのかな。
 そう思ったけれど、この家はとても閑散として、目の前の二人以外誰もいないようだった。連れ人なら子供がいて、さらにその子供がいてもおかしくない歳の二人だったけど、そんな雰囲気はない。連れ合いと思われる二人も…上手くいえないけれど、ぴんと張り詰めていて連れ人という感じがしなかった。
「誰だ」
 自分を見る眼光の鋭さに、呼吸が止まった。
「あ、その」
「こちらはですね……」
 フサと呼ばれた老女は、小首を傾げた。しばしの沈黙の後、「そうそう、名を聞きたかったのです」と、納得したように頷き、自分をまた見てきた。
「なんというのですか?」
 名を問われたのだと気づくのに、少し時間がかかった。自分を見る二対の目に急かされるように、答える。
「コウ」
 自分の名なのに、違和感があった。
「コウ…」
「コウですね、いい名です」
 二人同時に言われて、誰かに名を呼ばれたのは久しぶりだったと……茫然となる。
 ――そんなに、
 リンに踏み入ってから、そんなに時間が経っていたのだろうか。そんなに長い時間、自分は一人でいたのだろうか。
 ――どうでも、いいことだ……。
 コウは唇を引き結んで、俯いた。
 大地に伸びる自分の影。
「……」
 闇に包まれたリンの中では影の輪郭がおぼろで、自分の足元にあることはなかった。周囲の闇に溶けて漂う自分の影に、そのうち取って代わられるのではと、不安と恐怖に押し潰されそうになったこともあった。
 睨むように影を見ていると、すぅーと、別の影が伸びてきたので驚いて顔を上げると引き締まった肉に覆われた腕が自分へと伸びてきていた。
「うわ…っ」
 腕は自分の背中に回り、腰紐に括りつけていたモノをつかんだ。
「これは――」
 かちゃり…封印の外れる音が響いて、ざわり…、肌が粟立つ。
「何、するんだ!」
 覆いかぶさるよう近づいた身体を思いっきり突き飛ばして、老人が掴み取ろうとしたモノを遠ざけた。
 憤りが体中を駆け巡り、胸を押し潰すような荒い息が止まらない。老人から奪い返したモノを隠すに立つ。
 前屈みの不自然の体勢で止まった老人は、ゆっくり、視線を絡めてきた。
「お前、この刀を扱えるのか?」
「な、んだっ…て――」
 治まらない怒りをぶつけたが、老人の鋭い眼光に圧される。
「どうなんだ?」
「あ、その……でき、な」
「しゃんと答えんか!」
「……っ」
 びりびりと空気を振るわせた声音に、コウの背筋が伸びた。怒声に震える空気が肌を刺して、落ち着かなくなり後ろに退きたくなったが、縛りつけるよう見てくる老人から逃げることは叶わず、素直に答えた。
「できません」
 譲ってもらった刀。どう使うかは、知っている。そして、コレを揮うことの意味は……眼(まなこ)に焼きついて忘れることが出来ない。刀が揮われた、その時のことは、自分の中にこびりついていて……忘れたいのに、忘れられない。
「できない、とな」
「…はい」
 大きく息が吐き出されるのが聞こえた。自分にぶつけられたようなその音に、無意識に首を竦める。
「沢へ来い」
「え…」
 何を言われたのかわらからず、間近にある老人の顔を見つめた。
 刻まれた皺や緩む皮膚は経過した時間の長さを感じさせたけれど、老いたという言葉を当て嵌めるにはそぐわない力強さを感じる。影に包まれて曖昧だった老女の姿を初めて目にした時も思った。自分では計り知れない時間を積み重ねているのに、どうしてこんなにも強く存在を感じさせられるのだろうと、じっと見ていたら……老人と目があった。
「ぼさぼさするでない。行くぞ」
 ぐいっと腕を引かれた。足がもつれ前のめりになったけど、曳かれる強さに転倒することはなかった。引き摺られるように進んでいく。腕をつかむ手の大きさと硬さに、怖くなって振り払おうとしたら「まぁ、それはいけません」おっとりした声に、老人が動きを止めたので機会を失った。
「見てください。とても疲れています」
 老人は、その時初めて泥塗れのコウに気づいたようで「むぅ…」と声をどもらした。
「まず、休まないと」
「では明日――」
 老女が、困ったように首を傾げると老人は眉を顰め、「……明後日、日の昇る前だ」と言い、家の中に入っていった。
 背中越しに「わかったな」と言われ、咄嗟に返事をする。何を言われたのかわからなかったけれど、老人に目を向けられると、頷くことしか出来なかった。
 家の中へ消えていく背中。肩幅はそれほどなく小さな作りの体なのに、動作一つ一つが力強くて、圧倒されてしまう。無意識に老人の姿を追っていると、「こちらに来て下さいな」と呼びかけられ、その声を聞いてやっと老人から目を離すことができた。
「え?」
「こちらです」
 老女の近くに立つと、穴が空いてしまうほどじっくりと見られた。何も言わず、見続けるから堪らなくなって口を開いたら、老女がにこりと笑った。
「よく見たら本当に汚れていますから、清めましょう」
「はぁ…」
 出し損ねた声が間抜けな風となって口から零れた。
 近くに小川があったから、そこで汚れを落とそうとしたら凍えてしまうと、止められた。老女が替えの衣服と湯を用意してくれたので、低木の繁みで汚れた衣服を脱ぎ、体を拭ってから用意された衣服を着た。
 老人の名は、セシュン。
 そう教えてくれた老女は「遅れましたが、わたくしはフサと言います」と自分の名も告げた。
 二人は連れ人だという。
 でも、随分と希薄な関係だなと、思った。自分の知る連れ人の印象とは違っていて納得出来なかったけど、聞くことでもないので考えるのを止めた。
 改めて家に招かれ、コウは戸口をくぐって家の中へと入った。
「さっぱりしたな」
 家に入ると、セシュンが声をかけてきた。
「身を清めるのは、いいことだ。心が改まる」
 初対面で感じた強固な印象とは違う、自分を労わるような言い回しに、コウは瞠目する。自分を気遣ってくれた、そのことに何か言わなければと思ったが、うまく言葉がでなくて口端が引き攣った。
 セシュンが炉に向き合って座ると、見計らったようにフサが「御飯を頂きましょう」と炉の火にかけていた鍋の蓋を取った。湯気と一緒に温かな匂いを立ち上げる煮物を椀によそっていく。
「どうぞ」
「え……あ、はい」
 勧められた席に座ると、セシュンとフサは浅く頭を垂れ、祈るように目を閉じたのが見えた。その仕種に戸惑い、自分もやるべきかと迷っている間に、目を開けた二人は匙を取り、立ち上がる湯気ごと煮物を口に入れていった。
 目の前で踊る火を、コウは見つめた。
 火を囲うようにして食を取るのは同じだけれど、炉の形が違うなと考えていると、フサに「食べないのですか」と言われ、目の前に置かれた椀を見た。
 さっきより、湯気の立ち上がりが少なくなったけれど、掌にじんわり、広がる温かさ。
 一口、食べると緊張を忘れて、コウは次々と煮物を口に入れていった。
「どこから来た」
「え…」
 温かなものを口にしたのは久しぶりで夢中で食べていたコウは、セシュンと目が合うと、喉を詰まらせそうになった。
 セシュンは、鼻を鳴らして、コウから目を外し、もう一度言う。
「お前は、どこから来た」
「どこ、からって……村から」
「どこの村だ」
「どこって、村は村だし」
「村などいくらでもある。どこにある村なのだ?」
「どこに……」
 今度は、どう答えればいいかわからなかった。どこかと問われても、村は自分にとって一つしか示さない。それでは答えにならないと言われても、何をどういえばいいのか、…………わからなくて、コウは混乱した。
「何がある」
 瞼を下ろし、セシュンは言う。問いただすような口調がなり、コウは俯いていた顔を上げた。
「え…?」
「何か、山なり谷なり特徴的なものがなかったか?」
「山――」
 一つの光景が蘇った。
 ショウテイ。天を貫く山。いつも雷雲に守られ、その姿を地上にいるものに曝さない山。
 村を出る時、一瞬だけれど、見ることができたショウテイの姿。荒々しくそして猛々しい山肌はナニモノをも寄せつけない、孤高の山。
「……ショウテイが、ある」
「ショウテイ?」
「村を囲う山々の中で、一番高い山。天を支える山と、村では言われていた。あと――」
 湖がある、とは言えなかった。恵みを与えつづけてくれる湖。広くて深くて、ヌシ様がいると謂われる湖。日々の生活を支えたその存在は、すべて失ったコトを思い出させる。
 言葉にしたくなかった。自分の中の奥の奥へと押し込めた光景を剥き出しにする。これ以上、何も言いたくない……俯くコウに、フサの軽やかな声がすべりこんでくる。
「もしかして、神隠れの山かしら」
「そんなもの、ただの作り話だろう」
「けれどそこを夢見て、旅する方もいますよ」
 セシュンは、眉を顰めて口を引き結んだ。
「現れたり、消えたりするお話です」
 何を話しているかわからないと顔にでてしまったのだろう。フサはコウに微笑むと、話し始めた。
「神の降り立つ山はいつも雲に覆われ、地上に降り立つ神を隠す。この世で唯一、天に通じる山。空を抱く湖にその姿を映し、神の降り立つ場として相応しくあるよう厳格に在り続ける――――摩訶不思議で、おもしろいでしょう?」
 いつまでも余韻を残す言葉に聞き入っていたコウは、フサに呼びかけられて、我に返る。
「何がおもしろい。人を惑わす妙術だ」
「妙術、かもしれませんが、世俗に生きる人々の希望と夢を現していませんか?消えることなく昔から語られていますし、いずれ触れる機会があるでしょう。 ね?」
 同意を求められて、コウは返答に困り、最後の一すくいを口に入れ椀を下ろした。腹が満たされ、落ち着くと……治まっていたはずの疑念がまた湧き起こった。
 ――何故、
 火の光に浮かび上がるセシュンとフサを見つめ、コウは思った。何故、この人達は自分を家にあげ、食事を振舞うのだろうかと。
 何者かわからないのに、易々と家にあげ、食物を分け与えてくれた。自分のことを問う言葉はあったけれど、話したくなくて口籠もっていたら、深く聞こうとはしない。
 ――何故、だろう?
 この不思議な感覚は以前も抱いたことがある。
 リンの中で泣き疲れた自分を介抱してくれた人も、そうだった。見知らぬ自分に対して、あたたかかった。思い出して、コウは唇を噛み締めた。
 ――もう……二度と、会うことはないんだ。
 喉の奥からせり上がってきたものを押し戻す。気の緩みに目頭に滲んだものを拭い取っていると、セシュンが独り言のように声を出した。
「お前の持つ刀は、珍しい」
 荷物と一緒に置かれた刀を見て、セシュンは目を細めた。
「名の知れた者ですら手にするのが難しいものだ。巷で売買される刀は両刃で反りのない真っ直ぐなものだ」
 窄めたままの目で、セシュンはコウを見る。
「反りのある片刃は技法そのものが異なり、両刃の太刀を打ち砕く強さを持つ。都市を治める主(あるじ)はその刀を生み出す技を得たことによって繁栄を手にしたという。その主も、技法を失ったそうだがな」
 推し量るような眼差しに、コウは背筋が凍りつくような錯覚を覚えた。
「お前は、それをどこで手に入れた?」
 今しがた記憶の奥底に封じ込めた人のことを聞かれて、どくり、鼓動が強く鳴る。指先が小刻みに震えているのが見えて、握りこんで隠すけれど、全身が震えていた。
 呼気も震える。
 コウは、感情(ココロ)を吐き出すように、言う。
「……貰った」
「貰った、だと?」
 セシュンは、眉を跳ね上げた。
「誰にだ」
「……」
 コウは、口を引き結んだ。これ以上、言葉を作ったら封じた記憶が溢れ出して、正気のままでいられるかわからない。
 答えを拒むその仕種に、セシュンは空になった椀を置き、筒状の椀に入っている白湯を一口飲んだ。
「その刀を作り出した一族がいると聞いた」
 筒状の椀を動かすと、湯気が舞った。炉の中で燃える火の明かりを受けて白湯のゆらめきが光る。それを見つめながら、セシュンは低く呟いた。
「もう童たちの遊び歌でしか耳にしない。空言になってしまうほど昔……数々の優れた技術を持つ一族が山々に囲まれた地で静かに時を重ねていたと謂う」
 一息ついてセシュンは続きを語った。
「だが、身内の裏切りから一族は滅ぼされ、一族の悲しみに包まれた地はいつも晴れぬ霧に包まれているそうだ」
 筒状の椀を置き、セシュンは刀を見た。
「あれは、忘れられた歴史がカタチとなったものだ」
「……」
 刀の詳細を遠まわしに尋ねられているのがわかったが、コウは口を真一文字に引き締め、動かそうとしなかった。
 また、セシュンは息をつく。
 咎められたようなその仕種に、コウは肩を揺らしたが、それでも唇を動かさなかった。
「お前がどこから来て、どこに行くのかは知らんが…………儂らはお前と会った」
 ふいに、唸り声が聞こえたので驚いて顔を上げると、セシュンが笑っていた。強面の中に、やわらかさが見えた。
 踊る火の所為かもしれなかった。次に見た時、セシュンは初めて見た時の、厳つい強面と鋭い眼差しだった。
「だから、できることをしよう」
 セシュンの言ったことが理解できなくて、火の光に照らされる姿を見ることしかできなかった。ぱちり、火の粉が舞って、張り巡らされた梁をくぐって、天井の闇の中で一瞬だけ煌いて、消えていった。
 薬草や毛皮、獣の肝が置いてある納屋の整理をして、フサは寝具を用意してくれた。
「おやすみなさいませ」
 換気に開けた小窓は閉めてから寝てくださいと、付け加えてからフサはでていった。
 空に近い位置に備えられた小窓から月明かりが入ってきて、室内に置かれたものがぼんやりと見える。
 粉っぽい気配を漂わせるココは、家を思い出させる。
「……カヤ」
 ヒトの住まう空間に、居る。それに安堵して緩んだ心が、圧しこめた記憶を呼び寄せてしまう。ココの空気はなんだか似ていて、思い出してしまう。目を閉じて見ないようにしても、這入り込んでくる匂いが記憶を……どんなに必死に封じ込めようとしても、滲み出てきてしまう。
 頬を、涙がつたう。
 零れる雫に引き摺られるように、コウは名を呼んだ。
「カヤ…っ」
 もう、見ないふりをすることは出来なかった。
 同じ日に生れた片割れの名を、呼ぶ。
 カヤは踏みはいることを禁忌とされているリンに行っては、薬草や木の実を採ってきた。〝キ〟の者と村の人達に言われる自分達の血脈。村の人達とはどこか違う自分達が村の禁忌を破ることはしないで欲しいと、どれだけ懇願しても聞いてくれず、しまいには弱っていたとは言え鬼の使いと恐れられた生き物に名を与えて大切に育てていた。楽しそうにしているカヤに、強く言うことは出来なかった。ただ、村の誰とも一緒にいないカヤは一人で何処かに行ってしまうのではないかと、怖かった。
 ――だから、
 一緒に過ごしてくれる人ができて嬉しかった。
 ――嬉しかったのに……。
 これ以上思い出したくなかった。瞼をきつく閉じ、掛け布で丸めた体を覆って眠ることを自分に強制したけれど、噛み殺せずにでてしまう嗚咽は、月の光が差し込む室内を震わせていった。









二へ
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